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諸産業の発達 江戸期の網漁(歌川国芳)
1)漁業の発達⇔江戸の発展=消費都市全国的に海産物市場圏が拡大江戸の内海の小規模漁業→消費都市江戸の発展 →上方漁民(摂津、和泉)の進出(17世紀~) ①内湾漁業の開発=幕府から経済的援助と漁業特権 例:江戸佃島(内湾漁業基地をつくる) ・網漁(地曳網、定置網など)の普及 ②外洋漁業を拓いた漁夫群(紀州の出身) ・漁場の拡大(関東、三陸、四国、九州など、蝦夷 地も) ③綿栽培(大和、和泉、摂津など)→広範に栽培→干鰯・〆粕(鰯,鰊,秋刀魚等の大量漁獲で食用以外に生魚を煮沸 または蒸熱した後,搾油し乾燥した魚肥=窒素質肥料として常用)、 ④搾油→灯明油に加工1)漁業の発達⇔江戸の発展=消費都市全国的に海産物市場圏が拡大江戸の内海の小規模漁業→消費都市江戸の発展 →上方漁民(摂津、和泉)の進出(17世紀~) ①内湾漁業の開発=幕府から経済的援助と漁業特権 例:江戸佃島(内湾漁業基地をつくる) ・網漁(地曳網、定置網など)の普及 ②外洋漁業を拓いた漁夫群(紀州の出身) ・漁場の拡大(関東、三陸、四国、九州など、蝦夷 地も) ③綿栽培(大和、和泉、摂津など)→広範に栽培→干鰯・〆粕(鰯,鰊,秋刀魚等の大量漁獲で食用以外に生魚を煮沸 または蒸熱した後,搾油し乾燥した魚肥=窒素質肥料として常用)、 ④搾油→灯明油に加工
2)漁業産地・産物①鰯:九十九里浜(房総)<地曳網>→ 干鰯・〆粕、灯明油 ②鰹:土佐<釣漁>→ 鰹節に加工③鯨:紀伊・土佐・肥前・長門→ 食用、材料(髭)、灯明油④鮪:肥前五島⑤海苔(養殖):江戸湾 → 浅草海苔⑥牡蠣(養殖):広島⑦鰊・〆粕・昆布・俵物(干物)三品(いりこ・干鮑・ふかひれ):蝦夷地 ※昆布・俵物は長崎(幕府の俵物会所を通じ)から中国へ輸出→ 中華料理の材料、小さく、軽く、高付加価値、原料は大量にとれ、17世紀末以降銅にかわる中国への重要輸出品
3)漁業経営形態①上方・関東:入会漁業②東北などの後進地域:網元・網子制 ・「網元・網子制」:一部の網元(漁業経営者)や船主が漁業権をもち、網子や船子を使って操業、地曳網で大量の鰯をとり、3)漁業経営形態①上方・関東:入会漁業②東北などの後進地域:網元・網子制 ・「網元・網子制」:一部の網元(漁業経営者)や船主が漁業権をもち、網子や船子を使って操業、地曳網で大量の鰯をとり、 速効性の肥料である、干鰯(鰯の日干し)や〆粕(油を搾 り取った残り粕)を生産した。 九十九里浜(上総)の地曳網
江戸時代の漁業 江戸初期では、干鰯・〆粕、灯明油等の加工品需要があり、大阪では綿栽培の肥料として相当量の干鰯の需要があり、関西の商業資本(大阪の干鰯商人)が進出し、漁場の開拓などに努め、当時まだ未開の太平洋沿岸、北陸、関東、四国、九州、蝦夷地など全国に漁場が広まり、瀬戸内や熊野などで開発された上方漁法の地引網や船引網や定置網(大敷網など)といった漁網を使う大規模な網漁法が行われた。鰯では(九十九里浜の地引網漁・肥前国や房総の八手網漁(やつであみりょう)・伊予国の船引網漁)や鰹(土佐国の一本釣り)や鰊(にしん=鮭と共に蝦夷)の漁が行われ、遠洋漁業もおこなわれ、肥前五島で江戸時代の漁業 江戸初期では、干鰯・〆粕、灯明油等の加工品需要があり、大阪では綿栽培の肥料として相当量の干鰯の需要があり、関西の商業資本(大阪の干鰯商人)が進出し、漁場の開拓などに努め、当時まだ未開の太平洋沿岸、北陸、関東、四国、九州、蝦夷地など全国に漁場が広まり、瀬戸内や熊野などで開発された上方漁法の地引網や船引網や定置網(大敷網など)といった漁網を使う大規模な網漁法が行われた。鰯では(九十九里浜の地引網漁・肥前国や房総の八手網漁(やつであみりょう)・伊予国の船引網漁)や鰹(土佐国の一本釣り)や鰊(にしん=鮭と共に蝦夷)の漁が行われ、遠洋漁業もおこなわれ、肥前五島で
は鮪が、伊勢国や紀伊国太地(紀伊)で網取り式勢子船を用いる捕鯨が始まった。千葉県では、ツチ鯨のは鮪が、伊勢国や紀伊国太地(紀伊)で網取り式勢子船を用いる捕鯨が始まった。千葉県では、ツチ鯨の 手銛漁が始まり、それにより捕鯨が急速 に普及し 、土佐、肥前、長門でも鯨漁が 行われた。 漁業は魚介類の加工による商品が開発され、関東でも紀伊や和泉の漁師が出稼ぎ、やがて移住して干鰯を生産し、大阪に送るようになった。蝦夷地で漁獲された鰊は、肥料となり、寛永19(1642)年、東浦賀干鰯問屋が大阪送りの中継地として設立され、元禄末期(1700年)頃から江戸干鰯問屋との競合が激しくなった。 干鰊・昆布・俵物(いりこ、ふかひれ、干し鮑)などは、長崎(幕府の俵物会所を通じて)から中国へ輸出された。干しなまこ(煎海鼠(いりこ)=ナマコの内臓を抜き、ゆでて干したもの)、干鮑 (ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)は中華料理の材料。小さく、軽く、高付加価値原料で中国への重要輸出品となった。土佐の釣漁の鰹漁では、 鰹節に加工。
江戸時代の漁業制度 我国の漁業は、室町末期からめざましく発達を遂げ、江戸時代には網漁業や釣り漁業等、現在の沿岸漁業がほぼ出揃った。この頃は、浦浜ごとに一つあるいはいくつかの村に限定された利用漁場があり、入会漁場における家族経営的な漁業が一般的だったが、掟に基づく共同作業が中心の入会漁業で、こうした漁業は漁民の階層分化が前提で、漁船や漁具の所有者である網元(網主)・労働力のみを提供する漁師層網子(船子)という階級制度が存在していた。特定の地方では、網元、船元等の個人あるいは株仲間によって十数人ないし数十人の漁師を使用する大規模漁業が発達していた。また漁民には税として浦役(水主役[かこやく])が賦課された。 「山野海川入会」にみられる諸原則によって律され、「村並之猟場は、村境を沖へ見通、猟場之境たり」「磯猟は地付根付き次第也、沖は入会」等が漁場に関しての大まかな基準となっていた。これは、漁業集落の前浜漁場についてその縄張りを公認するとともに、「磯漁」と「沖漁」を区別していたことを示すものである。
◇ 百軒を超えると災を招く-歴史・伝説・民話を歩く-楠山 永雄 著 ◇ 百軒を超えると災を招く-歴史・伝説・民話を歩く-楠山 永雄 著 江戸時代、野島は洲崎村に属していたが、実際には浜方といい、浜名主(はまなぬし)が置かれていた。正式に野島村となったのは安政4年(1857)のこと。 網元の鈴木吉兵衛は、代々将軍家に鯛を献上する役を果たしていた。文政9年(1826)には2000匹、天保8年の将軍・家慶の就任式には5000匹を献上した記録がある。野島は江戸幕府から手厚い保護を受けていたという。 鈴木家には、「御本丸・西御本丸 御膳御用 活」と書いた船旗、「御本丸・西本丸 御用」と焼印を押した鑑札などが残っている。 野島は古くから「百軒島」と呼ばれ、戸数が百軒を超えると必ず災を招くとの伝えがある。これは内湾漁業だけの狭い島だったため、漁民が増えれば、それだけ漁業資源が不足する。つまり戸数を制限するための仕来たりのようなものと言われる。或いは、幕府から厚遇されていたので他所からの転入者を許さないための方便だったかも知れない。 戸数については、文政10年に95戸、天保11年に83戸、明治10年に148戸、大正11年には350戸などの記録がある。 • 船旗と鑑札 • (鈴木家所蔵 • /山田善一氏撮影) 富岡漁協と磯子他漁協との漁業契約文書(明治36年)
◇ 野島の漁業は延縄と一本釣り 東京湾は海域が狭いため、江戸時代から漁業資源の保護問題が常に深刻化していた。文化13年には、沿岸44ヶ浦の漁民が集まり漁場の範囲や漁具・漁法などを細かく取り決めている。漁獲の方法を38種に限定し、それ以外の漁法は固く禁止した。しかし、各村の専用漁場や入会(いりあい)漁場をめぐる紛争は跡を絶たず、他村の漁場で操業するときは、漁法、魚種、入漁料等について細部にわたる契約が結ばれていた。 漁法は、各村によって特色があった。大正14年の資料によって野島と隣村の柴と比べてみると、そ の違いは歴然としている。 柴の漁法と言えば、打瀬網(うたせあみ)や手繰網(てぐりあみ)など「網を使った漁」に限られ、漁場は柴地先の海が主体であった。これに対し野島の漁法には網の漁はない。すべて延縄(はえなわ)と一本釣の「船釣り」で、北は本牧沖・南は横須賀沖・東は富津方面まで広い範囲に出漁していた。 野島の漁法も、時代の流れとともに変化した。 今や海の男達は観光釣り船にその腕を活かし、 「釣り船のメッカ・金沢八景」の中核をなして いる。また金沢名産の海苔養殖やアナゴ漁も見 違えるほどに近代化が進んだ。大規模に築港さ れた金沢漁港を拠点に、野島の漁業はますます 健在である。 野島稲荷神社の絵馬(部分)
「磯漁」については浦税その他集落が負担する貢粗、「沖漁」については漁獲物を基準にした運上金や冥加金、これらを領主に納入することによって漁を行う権利が保障されていたとされる。これが「慣行」として、以後法律上の意味を持つようになるのである。「磯漁」については浦税その他集落が負担する貢粗、「沖漁」については漁獲物を基準にした運上金や冥加金、これらを領主に納入することによって漁を行う権利が保障されていたとされる。これが「慣行」として、以後法律上の意味を持つようになるのである。
北海道における本格的なニシン漁の始まりは江戸時代まで遡ります。当時、蝦夷地では稲作が行われておらず、蝦夷を治めていた松前藩は米で知行を与えることができませんでした。そこで松前藩では米の代わりに、アイヌの人たちとの「交易」をする権利、漁業を行う「知行地」を家臣に与えたのです。北海道における本格的なニシン漁の始まりは江戸時代まで遡ります。当時、蝦夷地では稲作が行われておらず、蝦夷を治めていた松前藩は米で知行を与えることができませんでした。そこで松前藩では米の代わりに、アイヌの人たちとの「交易」をする権利、漁業を行う「知行地」を家臣に与えたのです。
製塩業赤穂塩田の伏樋断面図 堤防を築き、溝を掘り、海面の干満の差を利用して海水を塩田に引き入れ、毛細管現象で砂に浸透した海水を、蒸発させ、塩分を濃縮させた砂が取れる。 入浜式塩田の産地=赤穂(播磨)、撫養(阿波)、坂出(讃岐)、行徳(上総)など(瀬戸内海沿岸で80~90%を生産) 。塩田の所有者を浜主と言い、労働者を浜子と言う。
江戸後期の製塩釜(「江戸名所図会」1836年刊) 大きな吊釜に鹹水(塩分濃度の高い水)を入れ、蒸発させ塩を得た。横木やロープで吊釜を支え、下から薪が燃やされ、煮詰めた。 塩分を含んだ砂を運んでいる
林業 江戸時代、各藩は山林を管理し、保安林、伐採の規則を決め、林産資源保存、杉、桧の植林に努め、挿スギ、挿ヒノキなど造林技術指導を行い、村総出の植林作業を行い、幕府直轄の御林(おはやし)でも材木奉行がこれを管轄した。林業の発達の要因には、都市の発達による需要増(とくに江戸の大火後の復興など)、鉱山での精錬用、都市での燃料用に薪や炭の生産の拡大が求められていた。日本の木材の産地では、木曽(尾張藩=檜)秋田(秋田藩=杉)、飛騨(檜)、吉野(杉)、熊野(杉)があげられる。 また、農民にとって死活問題である入会権論争に入会地を守るため地図を作成し、訴訟に備えた。林業 江戸時代、各藩は山林を管理し、保安林、伐採の規則を決め、林産資源保存、杉、桧の植林に努め、挿スギ、挿ヒノキなど造林技術指導を行い、村総出の植林作業を行い、幕府直轄の御林(おはやし)でも材木奉行がこれを管轄した。林業の発達の要因には、都市の発達による需要増(とくに江戸の大火後の復興など)、鉱山での精錬用、都市での燃料用に薪や炭の生産の拡大が求められていた。日本の木材の産地では、木曽(尾張藩=檜)秋田(秋田藩=杉)、飛騨(檜)、吉野(杉)、熊野(杉)があげられる。 また、農民にとって死活問題である入会権論争に入会地を守るため地図を作成し、訴訟に備えた。
入会地論争 江戸時代には、ほとんどの村で入会地を持っていました。 当時の生業は農業が中心で、煮炊きには薪(たきぎ)や炭を使っていたので、野山に強く依存し、そこに繁っている木々や萱(かや)、ススキなどは大切な資源でした。春には、さまざまな山野草が芽を出すので、厳しい冬を耐えしのいだ人々にとっては、おいしい食べ物を与えてくれる場所でもあり、また秋には、さまざまな木の実が採れる場所となり、落ち葉もたい肥の原料として掃き集められました。生木を勝手に伐採することはできませんが、枯れ枝は煮炊きや暖房に使うための、大切な燃料として利用されました。さらに、屋根を葺(ふ)く萱も、入会地に生えているのを刈り取っていました。このように人々にとって大切な入会地は、時によっては、範囲や利用について、他との論争が起こることもありました。そのため人々は、自分たちの生活の基盤となる入会地を守るため地図を作成し、訴訟に備えました。『入会地論争裁許地図』は、当時の南小曾木村の人々が自分たちの権益を守るために作成した。入会地論争 江戸時代には、ほとんどの村で入会地を持っていました。 当時の生業は農業が中心で、煮炊きには薪(たきぎ)や炭を使っていたので、野山に強く依存し、そこに繁っている木々や萱(かや)、ススキなどは大切な資源でした。春には、さまざまな山野草が芽を出すので、厳しい冬を耐えしのいだ人々にとっては、おいしい食べ物を与えてくれる場所でもあり、また秋には、さまざまな木の実が採れる場所となり、落ち葉もたい肥の原料として掃き集められました。生木を勝手に伐採することはできませんが、枯れ枝は煮炊きや暖房に使うための、大切な燃料として利用されました。さらに、屋根を葺(ふ)く萱も、入会地に生えているのを刈り取っていました。このように人々にとって大切な入会地は、時によっては、範囲や利用について、他との論争が起こることもありました。そのため人々は、自分たちの生活の基盤となる入会地を守るため地図を作成し、訴訟に備えました。『入会地論争裁許地図』は、当時の南小曾木村の人々が自分たちの権益を守るために作成した。
江戸時代の各藩の林業1618年長岡藩主水源かん養保安林制度の初まり 1626年萩藩、20年毎に伐採の輪伐法の「番組山」制 度を導入。 1631年青梅・西川近辺の入会論争が始まる。1642年幕府が代官に造林命令を出す1643年幕府、御林奉行は代官所に御林地元村々に植 樹を命る。 1661年幕府、諸藩は林産資源保続の採集を禁じた森 林を設置。諸産業が勃興→木材採取が盛んに→民間林業が出現。1697年仙台藩、私費で65万坪にスギを植林
1702年津軽藩主津軽信政、外浜の明山へスギ苗4万本 植付る。蟻須賀藩、造林と共に天然林の撫育と植 栽、実蒔を命じる。 1716年日田地方にスギの山挿し始まる。 1764年挿スギ、挿ヒノキを通達幕府の造林技術指導 の始り 1782年武蔵国秩父郡、雑木を皆伐してスギ苗2300本 を植栽。播磨国多可郡、雑木林伐採、スギ、ヒノキの苗6000 本植える。 1824年日向国飫肥藩鳥取藩、苗木支給、保安植林を 集落総出1836年伊勢国飯南郡波瀬村の田中彦左衛門が、飢饉 に民に食料を買い与えた。民は徳を感じ30町歩を 造林。(天保飢饉林)
鉱山業発達の要因江戸時代には貨幣制度が統一され、幕府が貨幣鋳造を独占した。貨幣鋳造では、武田信玄の甲州金、豊臣秀吉が製造した金貨・銀貨があるが、通貨の性格は薄かった。幕府の貨幣鋳の造材料や貿易品として金・銀・銅の需要が増加、幕府・諸藩が新鉱山を積極的に開発した。その結果、採掘法、精錬法は著しく技術的進歩した。従来の露天掘(露出した鉱石を採掘)から坑道法(鉱脈を坑道を掘り採掘) へ、砂金採取(河川から砂金を採取)から山金精錬(鉱脈から直接採掘)技術に進歩し、鉄の精錬も、「たたら製鉄」(砂鉄→鉄(玉鋼)を精錬)の新技術が開発。それでは江戸初期における金、銀の採掘状況をみてみると、日本は最盛期(日本は世界有数の金銀産出国)で、 17世紀後半になると、湧水処理の問題などで、佐渡相川金山、石見大森銀山、
但馬生野銀山、出羽院内銀山の歳出量の急減、それに変わって銅の採掘量が急速に増加した。泉屋(住友家)が管理運営した伊予国の別子銅山(元禄年間~)や、出羽国の阿仁鉱山(宝永年間~) ・院内銀山・尾去沢銅山などが有名、足尾(下野、慶長年間~)、粗銅の中に、金・銀などが含まれていることを知られておらず、また金や銀を分離するその精錬技術銀に代わり銅が重要輸出品となった(17世紀後半) 。 当時は鎖国中で、オランダと清とだけが出島を介して貿易を行っていたが、対価として支払う金銀は莫大な量に上った。 鉱山では前述のものの他、である。また鉄は中国山地や釜石鉄山の鉄鉱石と共に出雲国の砂鉄が有名であり、たたら製鉄と呼ばれる技法で精錬が為された。鉱山では坑夫たる掘子(元囚人や人身売買被害者が
多い)が労働した。経営者が山師であり、掘大工が採鉱して床大工が精錬した。彼らは金児神[かなこがみ]を崇拝した。多い)が労働した。経営者が山師であり、掘大工が採鉱して床大工が精錬した。彼らは金児神[かなこがみ]を崇拝した。
佐渡金山の入り口 1601年に金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。全盛期には金が1年間に400kg、銀が40t以上採掘される日本最大の金山であった。
新井白石は国外に流出した金銀の量を調査、それによれば、僅か60年間で金239万7600両、銀37万4200貫が国外に流出。100年間で日本で産出した金の4分の1、銀は4分の3が流出したことを意味した。このままでは100年もしないで日本の金銀が底を突くと、白石は懸念して貿易制限を提案したのが、1715年(正徳5年)、海舶互市新例《長崎新令》であった。日本の主な鉱山 産出物別 ・金…佐渡(相川)、伊豆 ・銀…生野(但馬)、大森(石見)、院内(出羽) ・銅…足尾(下野)、別子(伊予) ・砂鉄…出雲・美作など中国山地の国々 ・鉄鉱石…釜石鉄山(幕末~) ・石炭…佐賀(幕末~)経営形態別 ・幕府直轄…佐渡・伊豆(金)、生野・大森(銀)、足尾(銅) ・藩営…院内(銀) ・民間請負…別子(銅、元禄年間~)-住友家による開発 新井白石は国外に流出した金銀の量を調査、それによれば、僅か60年間で金239万7600両、銀37万4200貫が国外に流出。100年間で日本で産出した金の4分の1、銀は4分の3が流出したことを意味した。このままでは100年もしないで日本の金銀が底を突くと、白石は懸念して貿易制限を提案したのが、1715年(正徳5年)、海舶互市新例《長崎新令》であった。日本の主な鉱山 産出物別 ・金…佐渡(相川)、伊豆 ・銀…生野(但馬)、大森(石見)、院内(出羽) ・銅…足尾(下野)、別子(伊予) ・砂鉄…出雲・美作など中国山地の国々 ・鉄鉱石…釜石鉄山(幕末~) ・石炭…佐賀(幕末~)経営形態別 ・幕府直轄…佐渡・伊豆(金)、生野・大森(銀)、足尾(銅) ・藩営…院内(銀) ・民間請負…別子(銅、元禄年間~)-住友家による開発
手工業の発達1) 発達の要因①商業・都市の発達による需要の増大②技術の進歩、伝播③諸藩の保護:財源の確保のた→ 専売政策 2) 各手工業の発達(1)織物:木綿、絹、麻(a) 木綿織物:①麻とともに衣料として急速に普及 ←戦国末期に綿作が伝播、三河地方で作付け開始②農家の女性が伝統的ないざり機(地機)で生産③木綿名産:小倉織、久留米絣、有松絞(尾張)、尾張木綿、河内木綿(b) 絹織物:江戸中期には国内産生糸で国内需要を充当①以前からの産地:西陣織(京都)
②高級絹織物の生産技術の普及(18世紀中頃)③絹の名産:西陣織(京都)、桐生絹(下野)、足利絹(下野)、伊勢崎絹(上野)、丹後縮緬、上田紬(c) 麻織物の名産:奈良晒、越後縮、近江麻(蚊帳な ど)、薩摩上布(d) 染色:友禅染(京都)、有松絞(尾張 (2)和紙(a) 需要の増大(b) 流漉の普及(楮が主な原料)→全国への拡大(c) 専売制の実施(多くの藩で)→藩の財政に寄与(a) 日用紙:美濃、土佐、駿河、石見、伊予(b) 高級紙:鳥ノ子紙(越前)、奉書紙(越前)、杉原紙(播磨)、美濃紙、檀紙(讃岐)
(3)醸造業:酒、醤油など(a) 酒…伏見、池田(摂津)、伊丹(摂津)、灘(摂津)※江戸時代の中心は池田・伊丹、明治以降は灘・西宮に中心が移る(b) 醤油:野田(下総)、銚子(下総)、京都、竜野(播磨)、小豆島※野田・調子の醤油は「濃口醤油」、以前の醤油(関西の醤油)は「薄口醤油」 銚子は近隣に関東平野をひかえ、良質の大豆(常陸)や小麦(下総、武蔵など)、塩(行徳)が、江戸川と利根川の水運を利用して手に入れることができます。さらに、この水運により、つくった製品を江戸市中に運ぶことができるなど、しょうゆ醸造業発達の要因がそろっていました。
(4)陶磁器畿内より東では瀬戸物(せともの)と呼ばれ、中国、四国以西では唐津物(からつもの)とも呼ばれる。 ①登窯での大量生産が可能、上絵付の技術確立②藩の保護、専売制 ・有田焼=佐賀藩の保護→ 長崎貿易で海外輸出 ・瀬戸焼(瀬戸、多治見で生産)=尾張藩の専売制(a) 磁器=有田焼(伊万里焼、肥前)、7.九谷焼(加賀)(b) 陶器=8.京焼(清水焼、楽焼系の陶器)、瀬戸焼(磁器も生産)、備前焼(5)漆器南部塗、会津塗、輪島塗、春慶塗(能代・飛騨)
連房式登窯大量生産を可能にした 有田焼 瀬戸焼(赤津焼) 抹茶碗織部丸型茶碗 瀬戸焼抹茶碗黄瀬戸
5)手工業の経営形態:発展の系譜:農村家内工業→ 9.問屋制家内工業→ 工場制手工業1)農村家内工業の成立:農家の副業として成立 米の生産が増大→余剰米→貯蔵→生産余力 余力=資金+時間→有効利用=副業 農民が原料や器具も自前で生産する 自家消費用→商品化 ①「農村家内工業」=農村の零細な百姓による農業 と結びついた自給自足の手工業の形態 砂糖、たばこ、茶、磁器、絹織物、生糸が国産化され、商品生産として発展する。 木綿は最初は高級品であったが16世紀後半くらいから急速に普及し、17世紀の初めには庶民衣料としての地位を確立したと見られる。
(2)問屋制家内工業の一般化(18世紀)(a) 「問屋制家内工業」=問屋が農家に原料や生産道具を貸与、製品を買取る手工業の形態・農村部への商業・高利貸資本の流入により成立 → 問屋の支配(18~19世紀) 昔は片手間で養蚕をやり絹織物にしていたが、天保の頃から、「近年次第に繁昌仕候」という状態になり、各地より絹糸の需要が増え糸問屋も多くなって来た。絹織物の需要が増えると、生産設備が必要になり、製造技術が要求された。また、量的拡大にともない原材料の調達、製造、そして販売の分業も必然的に発生し、物流の効率化も行われ、量的な拡大は調達、製造、販売そして物流の個別要素を担当するだけでも生活できる状況が出て来た。
(3)工場制手工業(10.マニファクチュア)の出現(一部地域では17世紀に出現)(a) 「工場制手工業」=賃労働者(奉公人)を1カ所に集 めて分業で協同生産を行う手工業形態・問屋商人や一部の地主が工場で設置・資本主義生産の初期段階・伊丹、池田、灘の醸造業では17世紀に出現・19世紀には大坂の周辺や尾張の綿織物業、桐生・足 利の絹織物業などにも普及。 工場制手工業制への転換=需要の拡大は、必然的に製造元(機屋)が需要に応えられる職人を大勢雇用し、製造場所を集中し、分業を行い、生産技術を向上させ、高額な生産設備を整える産業資本が必要で、資本家という分野も生まれてきた。 1842年の尾張名所図絵に結城縞織屋の図の復元模型。
その結果として生産性は大きく向上することになります。加えて、地元の労働力では足りず、各地より人を集め、借家渡世も増えてきます。企業城下町が形成されてくるのでしょう。その結果として生産性は大きく向上することになります。加えて、地元の労働力では足りず、各地より人を集め、借家渡世も増えてきます。企業城下町が形成されてくるのでしょう。