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第一次 世界大戦と ロシア革命. 新興帝国主義諸国と 旧帝国主義諸国の相克。 被抑圧諸民族のナショナリズムと ロシア「社会主義」体制の成立。. 参照文献. 上杉忍・山根徹也編 『 歴史から今を知る ― 大学生のための世界史講義 』 山川出版社、 2009 年、第 7 章 第一次世界大戦とロシア革命、永岑 三 千輝執筆 第一次世界大戦とロシア革命は、 20 世紀の巨大な問題なので、 文献は膨大 にある。 そのなか から 利用 した主要文献 は 、上掲書の最後の 文献リスト を参照。. はじめに. 歴史から「今」を知る
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第一次世界大戦とロシア革命 新興帝国主義諸国と 旧帝国主義諸国の相克。 被抑圧諸民族のナショナリズムと ロシア「社会主義」体制の成立。
参照文献 • 上杉忍・山根徹也編『歴史から今を知る―大学生のための世界史講義』山川出版社、2009年、第7章 第一次世界大戦とロシア革命、永岑三千輝執筆 • 第一次世界大戦とロシア革命は、20世紀の巨大な問題なので、文献は膨大にある。 • そのなかから利用した主要文献は、上掲書の最後の文献リストを参照。
はじめに 歴史から「今」を知る テキスト『冷戦と福祉国家』の写真・・・2009年8月末 ベルリンの壁「崩壊」20周年、平和革命20周年 →東ドイツ(ドイツ民主共和国)の体制崩壊(統一=1990年10月) →ソ連という巨大な体制の解体過程の出来事(解体は1991年8月)。
なぜ、そうした一連の体制転換が可能となったか?なぜ、そうした一連の体制転換が可能となったか? • 世界・社会・人類の歴史的成熟。 • 米ソ、冷戦体制の両方の極・陣営における変化。 • どんな?
ある距離を置いて、今を見る 米ソ冷戦体制の成立は、どのような背景と経過で? 米ソの二大強国が出来上がる過程?
米ソ、2大世界強国の成立? • 「20世紀の三十年戦争」の帰結。 すなわち、1914年8月勃発の第一次世界大戦から、1945年8月に終わった第二次世界大戦までの「三十年戦争」 (Cf.17世紀の「三十年戦争」の結果は?) • 20世紀の「三十年戦争」・・・死闘の場となったヨーロッパの没落と米ソの興隆・世界強国化。
二大強国・陣営(連合国)が打倒したのは何か?二大強国・陣営(連合国)が打倒したのは何か? 日独伊の膨張的帝国主義の諸国家・体制 先進国と同じような植民地・勢力圏の拡大を求め、先進帝国主義諸国と対決しつつ再分割に乗り出した勢力・諸国家 新興帝国主義勢力・・・ファシズム諸国・ファシズム体制・勢力
1945年 膨張的帝国主義・植民地主義の諸国家の撃滅。 ・・・・帝国主義・植民地主義の原理的否定。 それらは、1917-1919年、第一次世界大戦の終結のとき、すでにレーニンやウィルソンなどが主張したことでもあった。 しかし、現実には、再度の世界戦争を引き起こす諸要因を内包していた。
第一次大戦の根本性格 帝国主義の列強が2大陣営で対決した帝国主義の戦争・・・帰結も必然的に帝国主義。 列強による植民地争奪(再分割)戦争・勢力圏覇権争い・・・帰結も必然的に植民地再配分。 したがって、ヨーロッパの強国が、それぞれに世界の主要な工業国、それぞれが植民地をもち、さらには拡大を目指し、衝突することになる。
20世紀の世界の課題? • 人類が達成した生産・文化の豊かな発展。 • 戦争、その原因としての帝国主義・植民地主義の廃棄。 強国・強大な民族による弱小国・弱小民族支配の廃棄 ・世界秩序における民主主義の実現 二つの世界大戦の経験を通じてはじめて。
民主主義の課題 その課題を認識し、主張した勢力・人々は、多様に存在した。 しかし、帝国主義・植民地主義勢力が戦勝国と敗戦国とを問わず支配的となり、そうした民主主義的な勢力・思想・人々をマイノリティとし、抑圧し、戦争への道を歩んだ。
第一次大戦 帝国主義の列強が2大陣営で対決した帝国主義の戦争 列強による植民地争奪(再分割)戦争・勢力圏覇権争い。 ヨーロッパの強国が、自ら所有する生産力・資本・市場・植民地を守り、拡大を目指し、衝突。
主戦場は?最も沢山の血が流れたのは?最も破壊がひどかったのは?主戦場は?最も沢山の血が流れたのは?最も破壊がひどかったのは? 主戦場は、ヨーロッパ(後掲、地図参照)。
第一次大戦1914-1918ドイツ・オーストリア・ハンガリー 対 イギリス・フランス・ロシア第一次大戦1914-1918ドイツ・オーストリア・ハンガリー 対 イギリス・フランス・ロシア
西部戦線 マルヌ河畔 イープル ヴェルダン要塞 ソンム河畔
東部戦線、1914-1915 • 1914.8.26-30 タンネンベルクの戦い • 1914.9.6-15 マズール河畔の戦い • 1914.11.1 ヒンデンブルクをドイツ東部軍司 令官に任命。ロシア軍の攻勢。 ・1915.2 マズリアの冬季戦・・・東プロイセン の最終的解放。 ・1914.12-1915.4 カルパティアの冬季戦 ハンガリー侵入のロシア軍を防ぐ。
東部戦線、1915夏-17年9月 7月1日以降、攻勢、8月5日ワルシャワ占領、8月18日コヴノ占領、8月25日ブレスト・リトフスク占領 9月テルノポリの戦い・・東ガリツィアで膠着 9月ロシア軍最高司令官がニコライ大公から皇帝ニコライ2世に代わる。 1916.6-8 ロシア軍の第一次ブルシロフ攻勢。第二次(9-10月)、第三次(10-12月)、第4次攻勢、 さらに、ケレンスキー攻勢・・・・成果を上げえず。 1917年7月以降、ドイツ・オーストリア連合軍が反攻。 1917年9月、ドイツ軍がリガ占領。
戦争は最初から世界規模・グローバルな連関 協商国(人口2億5800万、軍隊570万) 中欧諸国(人口1億1800万、軍隊350万) イギリス、フランスはそれぞれの植民地から兵隊を動員。 世界各地での権益・勢力圏を巡る争覇戦とリンク・・・「日英同盟のよしみ」から、日本によるドイツ攻撃(青島) Cf.関連して、反帝国主義・反植民地主義の主張者たち、その一人、石橋湛山の批判
戦争の経緯 • 1914-1915 戦争勃発から移動戦(機動戦) • 1914秋-1916 陣地戦 • 転換点・・・1917年 アメリカの参戦(2月、ドイツとの国交断絶、 4月6日、対独宣戦布告) ロシア革命(3月革命→11月革命)
総力戦・長期戦 飢餓状態の発生 資源不足の状態 諸都市の破壊 各国の戦死者・行方不明・傷病者の増大
弱い環ロシアの絶望的状態と3月革命 まず、1917年3月(ロシア2月)革命 ツァーリ追放・・・共和制へ。臨時政府。 しかし、戦争は継続 ・・・・ドイツとの戦闘ごとに、甚大な被害。
レーニン率いるボリシェヴィキ、労働者・兵士ソビエトで、勢力拡大レーニン率いるボリシェヴィキ、労働者・兵士ソビエトで、勢力拡大 社会主義政党・ロシア社会民主労働党の左派で、「多数派」の意・・・・1912年 党として独立。 第一次大戦中、帝国主義戦争反対、自国政府の敗北、戦争の内乱への転化(革命)を主張。 1917年4月亡命先スイスからレーニンら帰国 1917年十一月(ロシア暦十月)革命を主導。 1918年、党名をロシア共産党(ボリシェヴィキ)と改称。 後、ソ連共産党。
1917年11月(ロシア10月)革命 ボリシェヴィキ革命・・・帝国主義戦争への反対、平和とパンを求める国民大衆の切実な希望・・・実現 「平和に関する布告」、「土地に関する布告」、民主的行動綱領の採択。 帝国主義・植民地主義反対の勢力の結集 革命政権は、交戦諸国に無併合・無賠償の平和を提案・・・・実際には、無視され、戦争継続!
1918.3 ブレスト・リトフスク講和 • ドイツ(強者・勝者)とロシア(ボルシェヴィキ)革命政権との講和・・・弱体な革命政権は、屈辱的条件で講和を結ぶ。 • 単独講和(全面講和でなかった)
ブレスト・リトフスク条約 • 1918年3月3日に、ブレスト・リトフスクにおいて、ドイツおよびその同盟国とソヴィエト政権の間に調印された単独講和条約。 • ロシアは、ポーランド、リトアニア、エストニアなどの主権を放棄し、フィンランドより撤退し、ウクライナの独立を認めるなど、約320k㎡の地域を失い、 • 別にドイツに賠償金支払いを約した。(ドイツ革命の勃発により、破棄された) (『山川 世界史小辞典』…歴史用語に関する説明について、以下も同様)
単独講和の影響は? • ドイツの軍事力は、西側へ振り向けられる。 英仏に対するドイツの攻撃力の増加 1918年3-月7月の春季攻勢 • 協商国(連合国)の革命政権に対する反発 • 協商国(連合国)は、革命政権に干渉し、反革命勢力と連携。
1918年1月8日 ウィルソン大統領 平和原則14カ条を発表1918年1月8日 ウィルソン大統領 平和原則14カ条を発表 1条・・・民族自決、無併合・無賠償、勝利なき平和を 根本原則とし、公開外交による平和条約締結 2-4条・・・海洋の自由、平等な通商条件の確立、軍備制限など平和の維持 5条・・・植民地における原住民の利益の尊重 6-10条・・・イタリアの国境再訂正、オーストリアおよびハンガリーの自治 11-13条・・・バルカン諸国の政治的経済的独立と領土保全 最後に14条で、国際連盟結成を提案。
14カ条は、実現できたか? ヴェルサイユ条約をみよ! 強者=勝者は、実際には何をしたか? ウィルソンは、自ら提示した14ヵ条をもとにした休戦条約を実現したか(できたか)?
ドイツと英仏の戦争(西部戦線・海洋)は、1918年も継続ドイツと英仏の戦争(西部戦線・海洋)は、1918年も継続 • 戦時下の窮乏 すでに1917年以来、パンと平和を求める反戦機運の増大 • 労働者によるストライキ • ドイツ社会民主党・革命勢力の復活・活性化
1918年8月、継続望みなし 18.3-7 独、西部戦線で春季攻勢 18.7/8 フォッシュ総司令官のもとで連合軍はマルヌ・エーヌ間で反攻に出る。 18.8.8 アミアンの戦車攻撃でドイツ軍はジークフリート要塞地に退却を余儀なくされる。 18.8.14 スパーの大本営会議(最高統帥部は戦争継続を望みなしと言明。オーストリアのカール1世と外相ブリアンおよびドイツ指導層の間には休戦条件に関し意見不一致)
休戦交渉、10月 • 18.9 ヒンデンブルクとルーデンドルフはブルガリア崩壊後の休戦提案を希望 • 18.10 マックス・フォン・バーデン大公,宰相に。休戦交渉。 • 18.10.3/4.ウィルソンに休戦提案(その基礎は14カ条)。 アメリカの回答(10/8,14,23)・・・無制限潜水艦戦の中止、占領地域からの撤退。全権代表には民主主義者。
ついに、ドイツで1918年11月…革命勃発 • キール軍港で水兵が上官の命令に逆らい、出撃拒否(10月29日) • 11月7日ミュンヘン,9日ベルリン、革命勃発 • 労兵評議会・・・反逆・革命が全国に展開 11月10日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世・・・オランダに亡命・・・・人民代表委員会政府 • 11月11日、革命政権、連合国との休戦条約
パリ平和会議 ウィルソンの14カ条を基本原則として開催。 国際連盟 民族自決
ヴェルサイユ条約 パリ平和会議で作成された。 1919年6月28日、ヴェルサイユ宮殿で調印。 15篇440カ条 第1篇が、国際連盟規約。
ヴェルサイユ条約の問題点(第2篇以下) • 敗戦国ドイツだけに責任を負わせる。 ・・・「勝てば官軍」の協商国(連合国) 戦争責任・・・賠償責任・・・天文学的な額 ドイツとオーストリアの合併禁止 (その限りでのドイツ人の民族自決の否定)
被抑圧下にあった弱小諸民族の独立 • 民族自決の実現 • 帝国主義支配に対する民主主義の実現の側面 • しかし、同時に、戦勝国が敗戦国から 権益・領土・植民地を奪うという側面 (戦勝国の帝国主義の勝利)
ドイツの領土縮小(領土7分の1、人口10分の1の喪失)ドイツの領土縮小(領土7分の1、人口10分の1の喪失) • ポーランド回廊 (ドイツ領土のポーランド領による分断・縮小) ダンツィヒは自由都市として国際連盟の管理下に • シュレスヴィヒ・ホルシュタイン北部 (→デンマークへ) • オイペン・マルメディ(→ベルギーへ) • アルザス・ロレーヌ(→フランスへ)
ドイツ植民地のはく奪 • 戦勝国の委任統治下(支配下)に。