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再臨主の路程

再臨主の路程. 聖 蓋 布. (1953年~1968年). 2 レベル3. 釜山からソウルへ. 1953年、ボムネッコルから借家(水晶洞教会)へ移る。この年、劉孝元氏が導かれた。劉氏は大学在学中に脚部不随という体になってしまった。しかし、それでも一人で真理探求と聖書研究に没頭した。ある日「原理原本」を一気に通読し、再生の感激に泣いた。そして、文鮮明先生に手紙を出して一生を捧げますと誓いの言葉を捧げた。後に、文先生の指導のもとに「原理講論」を著す。

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再臨主の路程

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Presentation Transcript


  1. 再臨主の路程 聖 蓋 布 (1953年~1968年) 2 レベル3

  2. 釜山からソウルへ 1953年、ボムネッコルから借家(水晶洞教会)へ移る。この年、劉孝元氏が導かれた。劉氏は大学在学中に脚部不随という体になってしまった。しかし、それでも一人で真理探求と聖書研究に没頭した。ある日「原理原本」を一気に通読し、再生の感激に泣いた。そして、文鮮明先生に手紙を出して一生を捧げますと誓いの言葉を捧げた。後に、文先生の指導のもとに「原理講論」を著す。 そのころの文先生は、毎日二十四時間、特別睡眠時間もとらず、食事もされるかされないかで続けてみ言を語り、祈祷して過ごされた。教会員たちも霊通しない人がないほど、皆が恵みのるつぼの中にあった。 姜賢實女史による大邱での開拓伝道は、神霊の役事によってまもなく実を結んでいったが、キリスト教会の激しい迫害を受けた。 「異端の親玉を追放しろと騒ぎながら、その都市全体がうなりを挙げるのです。」 「私が大邱にいた時、1ヶ月に13回も引越しをしたことがありました。」 ソウル 大邱 釜山

  3. 釜山からソウルへ ソウルで伝道が開始された。 1954年5月1日、ソウルにおいて「世界基督教統一神霊協会」の看板を掲げて出発。 梨花女子大の梁允永教授(音楽)、李正浩教授(国文学科長)、崔元福助教授(学生課長)、金永雲助教授(社会事業科長)、韓忠助教授(舎務課長)らが次々と統一原理に感動し伝道された。 この時、統一教会(アベル)と、第一次摂理の失敗ゆえにカイン的立場に立った既成キリスト教会が、梨花女子大を通じて一体化したならば、韓国とアメリカが連結され、再び実体的カナン復帰の道が開かれるようになっていた。 神の摂理によって、梨花女子大の副総長の朴マリアは、当時の副大統領の立場にあった李起鵬の妻であり、息子が李承晩大統領の養子となっていた。しかし、摂理の中心人物はまたも責任を果たせず、実体的カナン復帰の道を妨害してしまった。 「金活蘭(総長)と朴マリアが主導となって、景武台(キョンムデ)に行って偽りの証言をし、五つの部署の長官を動かして、統一教会をなくしていまい、私を完全に埋葬しようとしていました。」

  4. 梨花女子大事件 統一教会の教理が梨大の伝統信仰であるメソジストとあまりにも違い、異端的信仰であると判断した大学側は、1955年3月、統一教会での信仰を捨てない5名の教授・助教授を免職処分にした。また5月には、14名の学生が退学を言い渡された。 マスコミは初めのころ、憲法で信仰の自由が保証されているにもかかわらず、退職・退学処分した大学を批判した。ところが政治的圧力が加えられ、地下室で服を脱いで踊りまくるなどと無責任な報道をするようになった。 1955年7月4日、文先生は兵役法違反および不法監禁などの嫌疑で逮捕された。その後、金元弼氏、さらには劉孝元協会長をはじめ3人の幹部が拘束された。このようにしてアベル側の統一教会とカイン側の既成キリスト教会の一体化の道は開かれず、再びめぐってきた実体的カナン復帰への道は閉ざされることとなったのである。

  5. 牢獄からの出発 実体的カナン復帰への道は、再び牢獄において「僕の僕」の位置から再出発することになった。 「私は、手錠を掛けられて、西大門(ソデムン)刑務所に向かって行く時でも恥ずかしいとは思いませんでした。私は天と地を見る時に、恥ずかしいものがありませんでした。堂々としていたというのです。」 文先生は教会創始者ゆえ、苛酷な尋問を受けた。弟子の一人がある部屋の扉を誤って開けたとき、そこで文先生が殴られ、蹴られ、血まみれになっている姿を目撃し、全身の血が逆流する思いだったと証言している。 「「神様、私が愛する民族を私以上に愛してください。神様、世界を私以上に愛してください。私のために同情する必要はありません。もし私が死んでも気の小さい男としては死にません。」そのように考えたのです。世界万民を率いて導いて行かなければならない責任がこのたらなき者に任せられています。この過ちを過ちと見ないで見逃してくださり、私にむちを加えることによって、世界人類を補うことができるならばそのようにして下さい、と思いつつ戦ってきたのです。」

  6. 牢獄からの出発 「‥昔私に従っていたある婦人が(監獄に)訪ねてきて、「文さん、まだそんなことをしているのか」と言うのです。あきれた話しでしょう。一時は「先生」と言って従っていたのに、私が監獄に入っていったので「神の息子であり、神が愛しているならば、なぜ監獄に入るのか」と言いながら背いていった人です。‥他の教会へ行って激しく統一教会に反対したのです。」 「私が西大門刑務所に入る時、拘置課長が‥私に向かって「統一教会が何だかんだと言っていたが、結局はこうなってしまったな」と言ってあざ笑いました。‥その時‥「私がここから出て行くときには、必ず刑事と看守ら、所長までも屈服させて出ていくんだ」と思いました。」 「先生は、彼らの中で一番やっかいな者、みんながその人は死んだらいいと思っている人をつれて来て、しばらく一緒に話をしながらよく教え諭しました。すると、「以前は、あんなやっかいな者だったのに、文という人が入ってきたら、その人が変わった」と言うようになりました。このように三、四カ月過ぎると、「監房の人たちはみんな、文という人のことは、よく聞く」といううわさが立ちました。言葉が問題ではありません。なぜかというと、先生は大韓民国に代わって、大統領も持ち得ない心情を持って、‥韓国の運命、そしてこの民族‥彼らのために涙を流して祈祷したからです。心情の主人になっているからです。」 「囚人をその母や父のように愛そうとするからです。食べるものがあれば、自分が食べずに食べさせてあげようとし、不便で一番悪い場所は、私が行って寝ようとします。それを彼らは知っているのです。」

  7. 牢獄からの出発 「そうして、監房にいるすべての人たちは、朝になると必ず挨拶をせざるを得ないようになりました。そうしてうわさが立ち、監房の中で「あんなに善良でよい人を閉じ込めてしまった大韓民国が悪い。この監獄が悪い。おまえたちが悪い。」と抗議する人たちも出てくるようになったのです。」 「1ヶ月もたたずに、刑務所の所長が訪ねてきて、私に「自分が間違っていた」と挨拶し、その上、幹部たちが私を招待し、昼食の接待までする運動が起こり始めたのです。」 「先生が満三ヶ月ぶりに出てくる時には、所長も課長も、そこにいた既成教会の牧師も、「よく見たら、うわさとは違っていたなあ」と言ったのです。そして、何人かの人々が、統一教会に来るようになりました。」 10月4日、文先生は無罪と判決が出された。その日の夜に文先生は出監された。教会に帰られ、弟子たちをご覧になりながら「あなた方がどれほど苦労したことか」と語られると、皆のどが詰まり、共々に泣いたのであった。

  8. 伝   道 1957年になると、文先生は忠清南道の鶏龍山で40日断食祈祷をされた。そして全国120か都市において一斉に夏季40日間の開拓伝道が始まった。学生から老人まで総動員された。また冬季40日の伝道が実施された。自分の任地まで列車に乗るお金がなかった弟子たちは、歩いて行った。伝道すれば、あの噂の異端の教会だとして耳を傾ける者もない。食べる物はなく、帰る家はなく、寒さをしのぐものもない。また、共に励ましあえる友もいない。文字通 り、乞食のようなところからスタートしていったのであった。 全国に基盤が築かれてくると、各地で復興会をするため、先生一行が巡回された。復興会では、毎日、創造原理から再臨論までの講義が九時間かけてなされた。講師が講義をしている間、文先生はいつも壇上の一番まん前にジャンバー・スタイルで正座をして泣きながら祈祷しておられた。その先生の頭には、いつしかチョークの粉が舞い落ちて、髪が白く染まっていった。講義を受ける人々はその方がいかなる方か知る由もなかったが、講師は先生の姿を見つつ泣きながら講義せざるをえなかったのである。

  9. 「父母の日」と聖婚 1958年6月に日本へ、1959年1月と9月にアメリカへ宣教師を派遣。 「1957年から1960年までの3年期間に反対が最高度に高まったのです。その期間は、どんなに国が反対し、手錠を掛けられてその道を行ったとしても、断固として命がけで闘争しなければならない期間でした。」 「ここが、統一教会の先祖の教会です。‥監獄から出て来ると‥家がないので、仕方なくこれを買ったのです。」 「この家は、歴史的な行事を行った場所であり、天と地が痛哭した場所です。多くの人々が痛哭した場所です。血を流し、身もだえしながら訴えた場所です。永遠に忘れられない事情で結ばれた、涙の痕がにじんでいる所なのです。涙でにじんだ神聖な祭壇です。みだりに入ったり出たりするところではありません。」 「ここは、真の父母の因縁が結ばれた場所であり、歴史になかったことが、この家でなされたのです。」「ここで歴史上になかった聖婚式を挙行したのです。」

  10. 「父母の日」と聖婚 「1957年から7年間は、2時間も寝ませんでした。1時間寝るのが普通だったのです。そのようにしても疲れを知りませんでした。疲れないようにする訓練をしたのです。」 地上天国実現の摂理が出発するには、アダムの失敗を蕩減復帰する(神と一体となった)男性と共に、堕落したエバの失敗を蕩減復帰する(神と一体となった)女性が必要であり、「真の父母」がこの地上に確立されなければならなかった。1960年3月27日(陰暦3月1日)に「父母の日」が宣布され、4月11日(陰暦3月16日)には文鮮明先生と韓鶴子夫人の聖婚式が挙行された。 「二千年前‥イエス様は人類を救援すべきメシヤとして真の父の使命をもって来られました。しかし、イエス様が十字架にかけられて亡くなられたので、肉身をもった真の父母が顕現できませんでした。その結果、霊的救援は成し遂げられましたが、肉的救援は実現されなかったのです。結局今日まで霊肉を共に救援してくれる真の父母がいませんでした。」

  11. 韓 鶴子 夫人 韓 鶴子 (ハンハクジャ)夫人は1943年、洪 順愛(ホンスネ)ハルモニが30歳のとき、文先生と同じ陰暦の1月6日、平安南道の安州の信里という村で誕生された。三代続けて娘一人の家系であった。洪ハルモニは熱心なキリスト教徒の母のもとで育ち、いつも「もっと高い教会はないか」と捜していたが、聖主教団の金聖道ハルモニに出会い、そこで15年間信仰を続けられた。そののち腹中教のもとで再臨主の降臨を待っておられた。 韓国ではお産の後にワカメの汁を飲む習慣があり、それを飲んでいると、サタンがやってきて「その女の子をこのまま置いておいたら、これから世界は大変なことになるから殺してしまえ」と言うのである。その1週間後、金聖道ハルモニが霊界から現れ、「順愛よ、お前はその子の乳母のごとくなって育てよ」と啓示された。 韓鶴子女史が6歳のとき、洪ハルモニと共に共産党に捕らえられ、11日間牢屋生活をされたが、再臨主が南にいるとの啓示を受けていたので、夜中に脱出し、洪ハルモニの母と三人で38度線の国境まで逃げていった。ところがそのとき、韓国の兵士たちが発砲してきた。すると幼い韓少女が韓国の歌を歌うのを聞いて撃つことをやめたのである。そして北から逃亡してきたことを話すと、「こんなにかわいい子供を連れて苦労してきたでしょう」とあたたかく迎えてくれ、ソウルまでのお金をくれたのである。途中で、主が南韓におられることを知って、道路の上でも、敬拝をしながらソウルへ向かわれた。

  12. 韓 鶴子 夫人 洪ハルモニは、韓夫人が成長するにしたがい、罪に染まらないよう、清く育てるため、済州島に連れて行って生活をされた。それから弟の家のある春川に移り、そこで統一教会に伝道されたのである。洪ハルモニは教会で奉仕の生活をするようになる。 韓夫人が文先生に初めてお会いしたのは14歳の中学校のときであった。 <韓夫人の証> 「当時は母と一緒に入教したばかりだったのですから、1960年に何が起ころうとしていたのか、知る由もありませんでした。初めて先生にお会いしたとき、先生は私をご覧になって、とっさに一瞬目を閉じて黙想された後に、心の中でささやくように言われたのです。『神よ、あなたはこんなにすばらしい女性を韓国にお与えになりました。感謝いたします』と。 「1960年の3月16日の聖婚式の1か月前に、先生が幻に現れて特別 な啓示を与えられたのです。『その日が近づいたから準備をしなさい』と。私はその時、どうして自分にそんなにも大きなことの判断ができるだろうかと思いましたから、無私になる以外にありませんでした。そして、『今でも私はみ意のままに生きてまいりましたが、今神のみ意が何であろうと、神の摂理の目的が何であろうと、私はあなたの僕として、どんなことでもお命じになることに従います』と祈らずにはいられませんでした。」

  13. 韓 鶴子 夫人 「あなた方は‥私がとても幸せで、あらゆる面 で完全な方に違いないと思われていることでしょう。しかしそれに反して、先生がそういう位 置につくべく運命づけて、苦難と十字架の道を歩まれるかぎり、私もまた信じられないような、耐え難く、負い難い十字架を与えられるのです。その達すべき基準はあまりにも高かったので、時にはゴールに達することが本当に不可能にすら思えました。その使命を果 たし、神の期待に応えるためには非常なる厳しい試練と苦難と驚異的な信仰が必要でした。ひとたび、このような事情と自分が歩んできた路程について思い出すとき、私は思わず涙せずにはいられません。なぜなら、これらについて語っていると、苦難と試練の記憶のすべてが蘇ってきて、私にはそれを語ることはとても大変なことなのです。神は、先生を試練されたとまったく同じように、私に何度も何度も試練を与えられました。そしてサタンもまた、イエス様と先生を試練したように私を試練したのです。メシヤの通 過されたと同じような苛酷なる厳しい試練を、このか弱い女性が通過しなければならなかったのですから、あなた方には信じられないような道でした。私は地獄の最低の底を通 過し、その苦い味を味わったのです。『これ以上こんな難しい道を歩み続けることはできません。絶対に不可能です。神よ、なぜ私にこんな道を行けと言われるのですか』と問うたことも数えきれないほど幾度もありました。私に必要だったのは、まさにうむことのない不屈の信仰と決意と忍耐でありました。しかし一方でまたこの頃は、自分の上に絶えず訪れた神の恵みを最も感じた時でもありました。私が苦闘のただ中にあるときにも、神はご自身を顕わしては、啓示を与え、導いて下さいました。そういう直接の導きのないときも、まわりにいる、私を愛し守ろうとしている人々を通 して絶えざる導きと日々の指示を与えられたのです。‥」

  14. 人類への神の祝福 文先生ご夫妻が、堕落したアダムとエバの失敗を蕩減復帰し、サタンの主管下にあった人間が、神の子女として新生する道が開かれた。次々と神によって祝福された家庭がこの地上に繁殖していくようになった。 1960年4月には3組、1961年5月に33組、1962年6月に72組、1963年7月には124組の祝福が成された。 「36家庭が何を意味するのかというと、‥‥これは歴史的全摂理を代表した型となるのです。摂理史観的な立場から見る時、これは人類の先祖たちだというのです。」 3組 33組

  15. 父母の日・子女の日・万物の日 1960年3月に「父母の日」が宣布されると、11月には「子女の日」が宣布された。すなわち神と一つになった真の父母がこの地上に立つことによって、堕落人間が神の子女として新生する道が開かれ、真の父母の前に真の子女が現われることのできる時を迎えた。さらに真の父母と真の子女が一体となって、神の愛で人間が万物を主管できる時を迎えたため、1963年7月には「万物の日」が宣布された。これらの勝利的土台の上で、1965年1月から1966年1月まで韓国を含め、世界の40か国を訪問し、120か所の聖地を決定して、真なる家庭を中心として勝利された基盤を世界に連結させた。 「きょう‥、「真の父母の日」を祝賀している団体は、この世界中に私たちだけです。統一教会では、「父母の日」「子女の日」「万物の日」「神の日」を四大名節として重視し、天地の新生を記念するものとして祝っています。しかし本来、人間の堕落というものがなかったならば、‥アダム、エバの子孫たる私たちは、それらの四つの日の基台の上に生まれてくるべきものであったということなのです。しかしながら堕落によって、この地上にはそのうちどれも達成されなかったのであります。そのために神様にとっては、喜びの日が一日もなかったというのです。‥祝うべき神の日も、父母の日も、子女の日も、万物の日もなかったというのです。そして万物も人間も、共に苦しみの中におかれるようになってしまいました。」

  16. 「神の日」宣布 真の父母と真の子女と万物が一体となった土台の上で、真の愛を中心とした創造理想が完成できる基準を備えるようになり、この地上に家庭を中心とした神の臨在の基準を立たせることができるようになった。そして、遂に1968年1月1日に「神の日」が宣布された。 「先生が草創期にこの聖地で涙を流し、祈祷したことを考えてください。今まで、聖地を選んで「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を選定する時まで、どれほど苦労の道を歩いてきたか、考えてください。それを中心にして、「神の日」である一九六八年正月、元旦が来るまで、どれほど苦労したか、皆さんは知らなければなりません。」 「一九六八年一月一日は、初めて神様が地上において創造理想を願われた、すなわち神様の愛を中心としてアダムとエバが一体となり、愛を中心として初めて着陸することができる、歴史始まって以来、初めての喜びの日である。その日を、「神の日」であるということを知らなければなりません。」 「神の日」がどういう日であるかというと、神様の直接的主管圏内に入ったことを意味する日です。また、「父母の日」は、堕落した父母が堕落以前の立場に上がっていくことを意味する日です。そして私たちは「神の日」、「父母の日」だけでなく「子女の日」、「万物の日」も探し立てたのです。」 「神の日が宣布されたために民主世界でも共産世界でも、内部から分裂が起こるのです。」

  17. 1968.1.1 神の日 神 サ 神 生めよ 長子権 アダム エバ 父母の日 メシヤ 真の父 真の母 偽り父 偽り母 真の父 真の母 祝福 ふえよ 真の子女 偽りの子女 真の子女 父母権 子女の日 神の血統 サタンの血統 私 私 家庭、国、世界 家庭、国、世界 家庭、国、世界 治めよ 万物の日 王権 万物世界 万物世界 万物世界 創造理想世界 堕落世界 復帰摂理完成 三大祝福 三権復帰

  18. 世界巡回路程 1965年1月~ 第一次世界巡回路程(120カ国) 「まず日本を復帰しなさい。先生以上に愛しなさい。世界を先生が愛する以上に愛しなさい。もしあなたの前に先生が倒れれば、先生の死体に取りすがって泣いてはいけません。先生が愛する神様を誰が愛しますか。先生が愛する人類を誰が愛しますか。先生が愛する天宙を誰が愛しますか。先生が負った責任を誰が負いますか。そのように愛せない立場で神様に嘆いてはいけません。これが皆さんに残したい言葉です。」 1965年1月31日 「先生はブラジルに行き、日本のある食口がそこで、言葉が出来ない中で神様のみ旨を伝えるため、幼い年で自ら進んで十字架を背負っているのを見ました。この荒地で、7千万人が住むこのブラジルに来て苦労しているのを見て、先生は胸が痛みました。‥‥夕暮れの飛行場に立って、出発する先生を涙で見送っていたその忠誠に満ちた姿を私は今でも忘れられません。」 「先生はバチカン宮殿の前で神様に祈祷を捧げました。『神様、2千年の歴史で6億以上の信徒を持った教会がここに建てられています。けれども彼らがどのようになるかを考えると、憂えざるを得ません。数えきれないほど分裂した教派や教団を、天のお父様が願われるとおり一つに統一いたします。』と祈祷しました。」 「どうして先生は世界を巡回したのでしょうか。聖地を知っているでしょう。これまで先生が勝利した基準を、世界的に分配してあげなければならないため巡回したのです。」

  19. 21年ぶりに御来日 聖日礼拝 1962年5月 リトルエンジェルス結成1965年6月 アイゼンハワーと会見1966年5月 初版原理講論

  20. 日本宣教 1958年7月 崔奉春(西川勝)宣教師日本へ 1959年10月2日 日本統一教会創立             (4名の礼拝から出発) 1960年8月 松本道子女史ら 開拓伝道              ↓ 全国に伝道推進 多くの青年たちが入教

  21. 御来日 1965年1月 文鮮明先生来日 世界巡回 1967年6月 再来日(上写真は羽田空港) 立正佼成会会長秘書の久保木修己氏が献身 1964年会長就任   宝塚聖地決定   廃品回収

  22. 摂理国家日本 「先生は神様の前に祈って、『日本の国をエバ国にしますから』と申し入れた。」 1969年5月1日12組祝福結婚式  1973年11月教会本部で 岸元首相と 1974年5月希望の日晩餐会

  23. 引用文献・サイト 「真の御父母様の生涯路程」(光言社) 統一教会Webサイト 歴史編纂委員会Webサイト 「人類史の大真実」Webサイト 世界日報Webサイト 新天地

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