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元岡(伊都新キャンパス) 周辺明治時代地図. 服部英雄. 九大. 大坂池. 元岡. 太郎丸. 今津には勝福寺、唐房. 毘沙門山、麓に誓願寺. 今津長浜には元寇防塁. 今山には箱崎別所. 元寇防塁. 周船寺 (主船司). 鐘撞. 怡土城 高祖城. 怡土城. 高祖山( 416m) の西側斜面一帯に占める大規模な 山 城跡 で、吉備真備(唐に 9 年)が天平勝宝年 756 年から 2 年間かけて築いた中国式山城。 官人・軍兵士・民衆の逃げ込み城 麓に官衙(カ) 中世には高祖城 太平洋戦争には本土決戦防衛隊. 周:す 周防 首:しゅ、す 首藤.
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元岡(伊都新キャンパス)周辺明治時代地図 服部英雄
九大 大坂池 元岡 太郎丸
今津には勝福寺、唐房 毘沙門山、麓に誓願寺 今津長浜には元寇防塁 今山には箱崎別所
元寇防塁 周船寺 (主船司) 鐘撞 怡土城 高祖城
怡土城 • 高祖山(416m)の西側斜面一帯に占める大規模な山城跡で、吉備真備(唐に9年)が天平勝宝年756年から2年間かけて築いた中国式山城。 • 官人・軍兵士・民衆の逃げ込み城 • 麓に官衙(カ) • 中世には高祖城 • 太平洋戦争には本土決戦防衛隊
周:す 周防 首:しゅ、す 首藤 周船寺(主船司)
大宝木簡延暦木簡 ベッソ(別所、水滴、木簡) 壬辰木簡
文献からの概要1 • 大宝二年(七〇二)の筑前国嶋郡川辺里戸籍(正倉院文書 • 当郡大領「追正八位上勲十等肥君猪手」 • 承和八年(八四一)正月一六日筑前国牒案(堂本四郎氏旧蔵文書/平安遺文一)に「志麻郡大領肥公五百麿」 • 「続日本紀」和銅二年(七〇九)六月二〇日条に「嶋郡少領従七位上中臣部加比」に中臣志斐連を賜姓
文献からの概要2 • 「日本後紀」延暦二三年(八〇四)一一月一一日条は、当郡の調品目変更記事 • 従来は調綿に代えて「調銭」を納めさせる記事と理解されてきた。しかし最近の研究により、古写本である三条西家本に従って「調銭」ではなく「調鉄」を納めさせる記事であると考えられるようになった。 • 「延喜式」主計上に筑前国の調品目の一つとして鉄が規定されている
文献からの概要3 • 「三代実録」貞観元年(八五九)正月二二日条には「筑前国志麻郡兵庫」の鼓が自然に鳴り、庫中の弓矢が音を発した旨を大宰府が言上。同書の新訂増補国史大系本文は「志摩郡」とするが、同条頭注によれば「摩、原作麻、今従印本」とある、「志麻郡」
川辺里戸籍から知られる氏姓 • 肥君七八名、宅蘇吉志二名、生君二名、卜部八四名、物部六三名、葛野部四三名、大家部二五名、建部一九名、大神部一二名、中臣部一一名、搗米部一〇名、己西部(許西部・許世部)九名、額田部六名、生部四名、難波部・秦部・宗形部各二名、出雲部・宇治部・吉備部・久米部・宗我部・財部・多米部・平群部各一名
肥君、宅蘇吉志、生君、卜部、物部、葛野部、大家部、建部、大神部、中臣部、搗米部、己西部(許西部・許世部)、額田部、生部、難波部・秦部・宗形部、出雲部・宇治部・吉備部・久米部・宗我部・財部・多米部・平群部肥君、宅蘇吉志、生君、卜部、物部、葛野部、大家部、建部、大神部、中臣部、搗米部、己西部(許西部・許世部)、額田部、生部、難波部・秦部・宗形部、出雲部・宇治部・吉備部・久米部・宗我部・財部・多米部・平群部 葛野部・難波部・大伴部・額田部・久米部・建部・己西部・中臣部・大神部 (左)川辺里戸籍(右)木簡
韓良・久米(くめ)・登志(とし)・明敷(あかしき)・鶏永(けや)・川辺(かわのべ)・志麻の七郷韓良・久米(くめ)・登志(とし)・明敷(あかしき)・鶏永(けや)・川辺(かわのべ)・志麻の七郷 久米(久米郷・久米部)・登志・明敷(赤敷里・明□)・志麻 (左になし) 山奈 (左)「和名類聚抄」(右)木簡
えと(干支)は60年に一度 今年は己丑つちのとうし 大宝元年は辛丑かのとうし 701年最古の年号木簡
<太寶元年辛丑十二月廿二日 • 白□□□〔米二石カ〕[ • ]鮑廿四連代税 • 〔歳カ〕 • 官川内□六黒毛馬胸白 」 • ・「<『六人ア川内』」
「代税」として運ばれる物品が「白米二石」と読めるとすると、一頭の馬が五斗を一俵として四俵を運搬することになる。なお『延喜雑式』には、「凡そ公私運米は五斗を俵と為せ。仍りて三俵を用て駄とせよ」という規定がある。「代税」として運ばれる物品が「白米二石」と読めるとすると、一頭の馬が五斗を一俵として四俵を運搬することになる。なお『延喜雑式』には、「凡そ公私運米は五斗を俵と為せ。仍りて三俵を用て駄とせよ」という規定がある。 • 斗はいまの1斗よりも少ない
『延喜雑式』に「凡そ京職・諸国、過所を造らば、具さに馬の毛・尺寸・歳歯を録せ」という規定があり、過所に馬の身体的特徴を記すことを定めていることからすると、本木簡は、荷札という役割だけでなく、過所としての役割も果たしていた可能性がある。『延喜雑式』に「凡そ京職・諸国、過所を造らば、具さに馬の毛・尺寸・歳歯を録せ」という規定があり、過所に馬の身体的特徴を記すことを定めていることからすると、本木簡は、荷札という役割だけでなく、過所としての役割も果たしていた可能性がある。
22〔銭カ〕□百十五文 • □己西マ田麻呂西□〔岡マカ〕□□ • *文:ここでは銭が使用されていた。 • 37 四百五十□ • □□□[ ]*この単位は何か。枚、文
計帳作成費用が納入 • 壹石者 計帳造書□□用仍□ 延暦四年六月廿四日中 • 養老戸令造計帳条、 • 計帳の作成は六月三十日以前に開始
26「献上 □〔沙カ〕魚皮…延暦四年十月十四日真成」26「献上 □〔沙カ〕魚皮…延暦四年十月十四日真成」 • 木簡は中央部が欠損、二片はそれぞれ同一木簡の上端部・下端部の可能性が高い。「魚皮」の上の文字は僅かに墨痕を残すのみで判読できないが、「沙魚皮」と推測される。沙魚は「サメ」とよみ、『出雲国風土記』秋鹿郡条に、北海にある雑物として「沙魚」がみえる。また「沙魚皮」の用例として『延喜式』弾正式に「凡白玉腰帯、聴三位以上及四位参議著用。玳瑁・馬脳・斑犀・象牙・沙魚皮・紫檀五位已上通用。」とある。なお、『延喜式』内匠式御大刀条によれば、「鮫皮」は大刀の柄を覆う素材としても用いられていた。
志麻郡七郷中四郷から荷物(貢納) • 29「『志』中臣マ刀良 • 『志』は『倭名類聚抄』記載の「筑前国志麻郡志麻郷」の志麻郷のことであろう。 • 31・□例可充従人志麻」 • 〔人カ〕 • 32「登志郷 • 『登志郷』は『倭名類聚抄』の筑前国志麻郡登志郷に相当する。 • 35・明
韓良郷(歴史地名大系) • 「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、高山寺本の訓「加良漢知」、名博本の傍訓「カラカチ」から「からかぬち」と読む。「万葉集」巻一五にみえる「筑前国の志麻郡の韓亭」は当郷内に位置したと考えられ、現福岡市西区宮浦(みやのうら)に唐泊(からとまり)の地名が残るので、当郷も宮浦を含む地域に比定される。 • 「壬辰年韓鉄□□」とみえ、壬辰年は持統天皇六年(六九二)
久米郷 • 「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「和名抄」の伊勢国員弁(いなべ)郡久米郷の訓「久女」(東急本)を参考にして「くめ」と読む。大宝二年(七〇二)の筑前国嶋郡川辺里戸籍(正倉院文書/大日本古文書(編年)一)にも「久米部奈良売」がみえるほか、元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群出土木簡(木簡研究二三)でも「久米□((古カ))手」「久米大□((神カ))□」が確認できる。現志摩町野北(のぎた)字久米、「続風土記」は現志摩町芥屋(けや)付近を江戸時代に久米郷とよんだとする。
登志郷 • 「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓も「度之」、「トシ」(名博本の傍訓)で一致する。現福岡市西区今津(いまづ)に所在する誓願(せいがん)寺の山号が登志山であること、「続風土記」が今津周辺を当時も登志郷とよんだとすることなどから、現在の西区今津周辺に比定される。現西区の元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群から「登志郷」と記された木簡(木簡研究二五)が出土している。
帯金具・権(権衡)・硯 • 過書の廃棄→関門(目的地はその先)・荷物の受け取り場所
この遺跡(入口、関門)の奥はなにか • 大宰府の機関 • 志摩郡の機関(国・郡・郷) • その双方があったのではないか • 主船司、兵庫、工房・細工所(製鉄所)、警固 • 郡内各郷から貢納 • 計帳作成(租税徴収簿)
壬辰 692±60 大宝元年701
元岡の小字 弓細工 古新開 六郎丸 米栗 船引 芥子ケゴ・警固 箱崎免
小字図 芥子 米栗
明治期地図 • 明治地籍図 • 境界(元岡村と前原村) • 水路 • 溜池
筥崎宮今山別所と栄西 • (奥書)承安三年癸巳五月廿七日於筥崎宮今山別所之僧坊/入唐聖人葉上御房御本書了/池上闍梨御撰 • 葉上御房:栄西(吾妻鏡・建保三年六月五日・寿福寺長老葉上僧正栄西入滅) • 妙法院所蔵史料調査(追加)第五回(昭和五十三年)調査撮影目録追加 九、金剛界灌頂隨要私記 一巻
栄西初度将来本を今山で筆写 • (奥書)承安三年癸巳五月廿七日於筥崎宮今山別所之僧坊/入唐聖人葉上御房御本書了/池上闍梨御撰 • 仁安3年(1168)4月入宋9月帰朝 • 『天台章疎』60巻を将来 • 承安3年(1173) • 文治3年(1187)3月再度入宋
馬出上(かみ)町・今山妙徳寺 • 正中二年(一三二五)五月二〇日の某書下(町村書上帳/鎌倉遺文三七)に「筥崎今山妙徳寺」、前掲秦重仲申状に「号筥崎馬出今山妙徳寺重仲氏寺也」。宋から帰国した明庵栄西が初めて住した寺である(続風土記)。寺内の鎮守に稲荷社があり、建久二年(一一九一)栄西の勧請と伝える。妙徳寺には至徳三年(一三八六)四月一二日の年紀を有するもののほか、五基の板碑がある。宝暦三(一七五三)には寺内から「貞和二年丙戌四月三日、鋳之、大工藤原友春、住持比丘尼真性」の銘を有する古鐘が掘出されたが、この鐘はもと豊後国隆生寺(続風土記拾遺)。
今山別所 • 別所とはどのような存在なのか、 • 妙徳寺はなぜ「今山」という山号を持つのか。
志麻郡・志摩郡川辺里 • 郡名の初見は現存最古の戸籍の一つである大宝二年(七〇二)の筑前国嶋郡川辺里戸籍(正倉院文書/大日本古文書(編年)一)で、そのなかに当郡の大領「追正八位上勲十等肥君猪手」の大規模な戸が含まれており、承和八年(八四一)正月一六日の筑前国牒案(堂本四郎氏旧蔵文書/平安遺文一)にも「志麻郡大領肥公五百麿」の名がみえるので、その後も肥君一族の勢力が保たれていたと考えられる。