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№ 20. 発行 2014 (平成 26 )年7月 1 日. 9条 の会 ごか. 事務局 : 青木正彦 ☏ 0280-84-1156 〒 306-0306 五霞町原宿台 3-18-4 編 集 : 高橋宏光 ☏ 0280-84-0882 E-mail : bmhyj940@hb.tp1.jp. “ 戦争 体験を語り継ぐ つどい ”を開催 5 月 17 日(土 ) 五霞 ふれあい センターにて開催、 19 名参加 ◇ 戦争 体験を語る DVD 「再び繰り返さないために」など3本を視聴
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№20 発行 2014(平成26)年7月1日 9条の会ごか 事務局 : 青木正彦 ☏0280-84-1156〒306-0306 五霞町原宿台3-18-4 編 集 : 高橋宏光 ☏0280-84-0882E-mail : bmhyj940@hb.tp1.jp • “戦争体験を語り継ぐつどい”を開催 • 5月17日(土) 五霞ふれあいセンターにて開催、19名参加 • ◇ 戦争体験を語るDVD「再び繰り返さないために」など3本を視聴 • ◇ 町内在住の戦争体験者の話を聞く(7名の方のお話の要約を紹介) • ◇ 「憲法9条をノーベル平和賞に」キャンペーン賛同、署名 • ●「憲法9条をノーベル平和賞に」推薦受理 • 神奈川県の主婦(鷹巣直美さん)がノーベル賞委員会に推薦 • ●「憲法9条をノーベル平和賞に」実行委員会のキャンペーンに賛同しネット署名 • ●署名用紙による拡散へ、当日より各自署名にとりくむ • 開会の挨拶 (青木正彦) • 9条の会ごかが、大谷さんを発起人代表として立ち上げてから6年目になります。昨年5月9日に大谷隆照さんを失い、その後世話人一同9人が固まって微力ながら活動を続けてきています。 • 戦後69年目、「戦争は二度とごめんだ」との思いで、平和憲法を受けとめ平和に過ごしてきました。新聞各紙も大きく取り上げていますが、自衛隊を海外の戦地に送る戦争への道、これが集団的自衛権の容認の中身である。「戦争できる国造り」ということが、現実の問題として姿を現して来ました。たいへん危機感を感じています。 • この背景には、戦争を知らない世代が大多数になり、戦争は自分には関わりがないと思っている若者が多い。しかし戦争とは例外なくすべての人がかかわってきます。人々の人生が戦争によって翻弄され、それぞれの運命は左右されました。 • 戦争に傍観者であってはならない。自分がかかわっていかなければならない。本日は、今までは偉い先生を呼んできてお話を聞くことでしたが、戦争を語る人は一杯いる。70代80代のお元気な人は語れます。身近な人たちの体験を語り合う、それを広めていきたい。戦争の実際を知れば戦争を防ぐ力になる。そのきっかけとして本日の催しを計画しました。 • 【杉本建一さん】 • 太平洋戦争は昭和16年に始まり昭和20年に終わる。父は国鉄でしたが、徴兵を逃れるため満鉄に単身赴任。私は母と4人の子供と一緒に、淀橋(当時、新宿は淀橋区と言っていた)の借家に住んでいた。 • だんだん空襲が激しくなってきて、疎開するようになった。疎開には個別に行く縁故疎開と、学童疎開があって集団疎開と言っていた。 • 私はその時4年生、八ッ場ダム(建設中)のある川原湯郡というところに集団疎開した。温泉場にある旅館に分散して、みな終戦までいた。私はそこから縁故疎開で茨城・結城に移ったので、1年間学童疎開を経験している。 • 新宿から出発するとき、親は皆泣いて大変だった。児童たちは遠足に行くような気分だった。それからがひどかった、食事は一番のごちそうはおからの炒ったものが最高の食事で、何時もみんなお腹をすかしていた。東京の実家からいろいろ気を利かして送ってくれた物はみな没収され、当人に渡らない。 • 当時は和服の寝巻だったが、縫い目のところにズラッとシラミがいてそれを取っていた記憶がある。脱走する子供や、今でいうノイローゼで寝込んでしまったりする子も結構いた。 • 【大谷志津子さん】 • 9条の会の皆様には、大谷が大変お世話になりました。5月3日に一周忌を済ませたところです。今日は大谷のことではなく、父の話をします。 • 父は昭和19年12月14日に東部ニューギニアで戦病死。母は三人姉妹の長女、父は神奈川出でご縁があって、五霞の善照寺に養子として迎えられました。五霞に来て間もなく中国の戦地に送られ、無事に帰ってきてホットしていたら、臨時招集で東部ニューギニアへ、私が生後5か月ぐらいのかわいい盛りで、父はほんとに後ろ髪ひかれる思いで戦場に。 • 平成22年、厚生労働省で慰霊巡拝の計画があることを知り、応募し参加しました。現地の気温は11月でしたが30度をこえ常夏の山深いジャングルの島。東部ニューギニアにおける日本軍の戦没者は、陸軍約10万8千人、海軍約6千5百人、沈没などによる戦没者を含めると約12万7千人となります。 • これらの戦没者は、戦闘による戦死者の他、未踏のジャングルや山岳における作戦行動、加えて補給途絶による食料の欠乏などによるものです。 • 父はマラリヤによる戦病死、山また山の中を行軍した中で食料がなくてマラリヤに負けてしまった。うだるような暑さの中食べるものもなく、疲弊した体にはマラリヤに抵抗する自力もなかった。27歳の父はどんな思いで死んでいったのでしょう、さぞかし無念でならなかったことでしょう。慰霊の旅に参加することにより、戦争の惨さ、愚かさ、恐ろしさを痛感した次第です。 • 戦争体験者のお話
【宇浪興さん】 • 私は昭和5年に生まれ。終戦の時に疎開先の秋田の大館から東京に帰って来た、何もない、焼け野原。同級生も死に別れたのか行方がわからない。 • 私は食料がないから米軍の基地に働きに行こうと、芝浦にいって食料倉庫に入って、なんでもある物を食って一日終わる。給料なんかいらないわけです。 • 安宅産業に勤め農家の鎌を作る。鉄に鋼を焼き付けて作り出す、当時は徹夜でやっても間に合わないくらい、夜昼働く。 • 大蔵省の印刷局に入る、地下に潜った機械を地上げし組みなおして、収入印紙を造る機械を動くようにして、ドルを稼ぐようになった。 • 戦争というのは軍隊があったからとか天皇がどうのとかではなく、国民がきちっとしないと戦争は起こされちゃう。 • 集団的自衛権という難しい話が出ていますが、憲法は憲法できちっと守る、戦争しないということをきちっとして、それから先の話は別です。今の総理大臣のまんま行くことは許されないと私は思っている。 • 【桜井久一さん】 • 私は85歳。戦争を語り継ぐ会だというが、年寄が多くて語り継ぐにはちょっと年を取りすぎている。若い親でも小学校二、三年の子供連れで遊ばせながら話でもすれば、語り継ぐことになると思う。若い人が子供たちに、しっかりと頭に植えつけてもらうのが一番いいと思っている。 • 私は農学校だったから運が良くて食料増産の勤労奉仕でうどんを食べていた。一つ下は普通高校(昔の中学)で、飛行機を作る工場に行っていて、爆撃で死んでしまった。仲の良かった同級生は満蒙開拓団に行って敗戦後逃げて帰ってくるときに殺され、帰ってこなかった。 • 兵隊に行った叔父さんはソ連にやられ、兵隊はみんな捕虜、シベリアで寒い中を強制労働させられて大変な目にあって帰ってきたようです。 • アメリカも、広島や長崎に原爆を落としたり、東京を丸焼けにして、女子供も差別なしに皆殺してしまうやり方で、日本だけが悪いようなことを言っているけれど、あの戦争は大変な戦争だった。 • 兵隊だけでなしに皆を差別なしに殺してしまうやり方じゃないかと思っている。 • 【青木不二子さん】 • 昭和2年生まれ。高等女学校卒業した年の8月15日に終戦。在学中に助教の資格を取って、卒業と同時に小学校の先生になる、男の先生は戦地に召集され、女性ばかり。 • 教室は兵隊さんがいっぱい常駐。子供たは馬小屋とか農家の大きな納屋とかを改築して勉強した。 • ある日、子供たちと草むしりをしていたら、あぜ道にパッパッと音がした、B29が低空飛行をして、子供たちを狙って機銃掃射、「草むらに隠れなさい」と言ったことだけ覚えている。 • 空襲は熊本で受けた。白川という川沿いの町が全部焼けて、我が家も焼けた。翌日下宿から家に帰ったら、隣のうちは全員が防空壕の中で蒸し焼きになっていた。 • 私の同級生は二人兄弟、お父さんが弟を抱っこして、その日の空襲を逃げた。弟さんに直撃弾が当たってお父さんは無事、弟は空襲から16日目に死んだ。本当に悲惨。 • 【遠山久雄さん】 • お袋が五霞生まれ、4歳ぐらいで幸手から手をひかれて食料を求めに来た。五霞は昔お米が取れないから麦とかサツマイモ。 • 麦を1升、縞の風呂敷包を子供の私が抱え、お袋に手をひかれ、途中の薩摩畑で薩摩を掘ってもてるだけ持って帰る。 • 学校に入ってからは、かっぱらい、食に困っていたから、トマト、カキ、見つかると捕まって。カバンは、教科書なんかは学校に置いてきて、空っぽのカバンにかっぱらった物を入れて、桑畑に穴を掘り藁をかけて埋めておき、帰りに食べる。5年生ぐらいまで何もなかった。そんなつらい時代でした。 • 【南部邦枝さん】 • 旧満州から引き揚げてきた時が小3年生。 • 《その時の体験を三十一文字の日記に記す》 • 三日分の米子には靴をと組長の命に家をば出来しままに • すし詰めの避難のトラック山中に遠くの町の空赤く燃ゆ • 照る真夏水欲るわれらが弟妹に岩にしたたる水汲みし母 • 妹二才死して抱きつ北満の棺なき地に葬りにけり • (栄養失調と寒さのために、風邪にかかり亡くなった。) • 一部屋に死にたる人の並べられ荷馬車に山と捨てられて行く • (山のように死骸が、次々に死んでいく。最初は校庭に一人ずつ掘って、 • タオルをかけて埋められていく。場所がなくなるから部屋に並べられて、 • まとまると持っていかれた。) • ソ連兵に銃口向けられてわれ九才の膝のふるえは床打つごとし • 戒厳令の寒き夜の町母子四人銃声の中逃げ惑いたり • 懇談・交流会でのお話 み そ ひ と も じ 憲法フェスティバル(水戸工業高校ジャズバンドの演奏) • ≪イベント参加報告≫ • ●5月3日(土) “2014年憲法フェスティバル”(水戸はなみずき公園) に6名参加、約1,200名のつどい • 弁護士 八方亭 みややっこさんの憲法落語などを聞き交流。 • ●6月10日(火) “九条の会発足10周年講演会” (渋谷公会堂) に3名参加、約2,000名のつどい • 主題 『集団的自衛権と憲法9条』、呼びかけ人で作家の大江健三郎さんや澤地久枝さん、翻訳家の池田香 • 代子さんらは強い危機感を示し、「解釈改憲 抜け道許せない」 と訴えた。 • ≪今後の行事予定≫ • ●7月3日(木)平和行進、「核兵器のない平和な世界をめざして」2014年原水爆禁止国民平和大行進 • 9:30五霞中央公民館集合、役場まで行進、10:00五霞町役場前庭で集会 • ●9月6日(土) 9:00鐘つき(善照寺) ●11月バス 視察研修を予定