260 likes | 331 Views
人文学 Ⅱ ー 生と死の探求 ー. 第 15 回 永遠のいのち 20140122 飯嶋 秀治 shuuji@lit.kyushu-u.ac.jp. Ⅰ . 「永遠のいのち」を記す聖典. 1.仏典と聖書. ゴータマ・シッタルダ( B.C.563-483 頃) 『 スッタニパーダ 』 「ああ短いかな、人の命よ。百歳に達せずにして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ」 [Anonymus1984 : 181]. イエス( B.C.5-33 頃) 「マルコ福音書」
E N D
人文学Ⅱー生と死の探求ー 第15回 永遠のいのち 20140122 飯嶋 秀治 shuuji@lit.kyushu-u.ac.jp
1.仏典と聖書 • ゴータマ・シッタルダ(B.C.563-483頃) 『スッタニパーダ』 「ああ短いかな、人の命よ。百歳に達せずにして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ」[Anonymus1984:181] • イエス(B.C.5-33頃) 「マルコ福音書」 「アーメン、あなたたちに言う、ここに立っている者たちの中には、決して死を味わうことのない者らが幾人かいる、神の王国が力をもって到来したことを見るまでは」[Anonymus2005:102]
1.延命 • 科学技術 ①移転の方法 ロボット工学+人工知能(Artificial Intelligence)[黒川1998] →だがAIロボットが人間に接近すれば接近するほど、死にも接近するという逆説が発生 ②再生の方法 ES細胞及びips細胞によるヒト・クローン人体バンク[大和2008] →技術的、法的、倫理的課題
1.命の宿り方 • 殺生から得る感覚 「小鳥や犬や猫をペットとしてかわいがったり、すぐ『かわいそう』を口にして、すぐ涙を流す子どもたちが、他人が殺すものなら平気で食べ、食べきれないと言って平気で食べものを捨てるということが、わたしには納得がいかないのだ。」[鳥山1985:15]「殺す人と食べる人が分離されたときから差別がうまれ、いのちあるものをいのちあるものとさえみることができなくなってしまった」「鳥山1985:16]
1.水俣の世界 • 水俣病患者補償運動と漁の世界 「このままでは親父にすまんという気持ち、これはその後もずっと長くあったです」[緒方・辻1996:45] 「イヲばとるっていうことは命をとるっていうことでしょ。だから、あんまりらくさん網にかかると、こっちの命までとられる気がしてくるんです・・・タイとかの高級魚は活きのよさを保つために、とるとすぐ血を流すんですが、この時にはいつも『すまんな』という気持ちになる」[緒方・辻1996:196]
2.本願の会、誕生 • 水俣病簡易年表 1908日本窒素肥料(株)設立 1941後に水俣病と疑われる患者 1956水俣病公式確認 1959有機水銀説から「漁民暴動」へ 1968政府が公害病と認定 1969水俣病裁判始まる 1973患者側勝訴による補償協定 1978県債発行 1989和解への動き 1996和解調停 • 緒方正人 1953芦北町女島生まれ 1959父、急性劇症型水俣病で死去 1974認定申請 1975ニセ患者発言への抗議で逮捕 1985認定申請取り下げ、脱会 1994「本願の会」発足(17人で「本願の書」)
3.本願の来歴 • 既成の宗教教団 「この辺は西本願寺系が多いんですが、住民の方ではこれを葬式仏教と割り切っている。つまり死んだ時からしか世話にならんものだと。一方、寺の方でも生きて病んでいる者には何ひとつしない。四〇年間、水俣病について知らん顔でとおしてきたんだからすごい。それでも住民は逆らいはしない。以前は特に寺を大事にしとったそうです。しかし、じゃぁそこに信を置いているかというと、そうではない。子どもがいやいや授業を聞いているようなもんでしょうか」[辻&緒方1996:207] • 本願の会 「私たちは決して宗教団体をつくろうとしているのでもないし、いわゆる組織仏教的なものではないんだ、という気持ちもある訳です。/…「本願の会」というのは“本願とはなんぞやという課題を抱えていきます”というのを表明したのであって、本願ということについて解き明かしたというふうにはさらさら思ってないわけです。… / おれにとってはいちばん馴染みがあるのはやっぱり恵比寿さんで、いま埋め立て地に恵比寿さんを彫って祀ってあるけど、それは水俣の魂の痛みと向き合い、さまざまな魂や命と対話していきたいという表明だと思うんですよ。」[緒方2001:197-198]
1.もう一つの本願 • 水俣病簡易年表 1908日本窒素肥料(株)設立 1941後に水俣病と疑われる患者 1956水俣病公式確認 1959有機水銀説から「漁民暴動」へ 1968政府が公害病と認定 1969水俣病裁判始まる 1973患者側勝訴による補償協定 1978県債発行 1989和解への動き 1996和解調停 • 杉本栄子 1938生まれ 1941漁村に移る(父、進は網本) 1959母トシ入院、雄と結婚も流産 1969漁村の3軒と共に提訴 1973勝訴 1974認定 1978反農薬水俣袋地区生産者連合 1981夫認定 1994「本願の会」発足(17人で「本願の書」)
2.もう一つの本願② • 部落の変貌 「前の日もいっしょにご飯を食べとった人たちが、その[母のマンガン病]放送があったちゅうばっかりに誰も来なくなった」[杉本2000:133] 「私たち部落からは四軒ほど訴訟に立ったんですけれども、いろいろな切り崩しに耐えきれずに次々と部落を去って行きまして、最後まで残ったのは私たち一軒だけでした」[杉本2000:137-138] 「私たち漁師の命とする綱を切ってくれた」[杉本2000:138] • 死との直面 「たてつづけに三人流産しました」[杉本2000:134] 「私の考えを読み取ってくれる父でしたので、父が亡くなってどうしても耐えきれずに泣く日がいっぱいありました」[杉本2000:136] 「昨日まではいっしょになっていじめたおばさんやおじさんが、次々と劇症の水俣病になっていく」[杉本2000:139] 「裁判が終わっても、私たちの身体は今日死ぬか、明日死ぬかちゅうことをいつも迎えていました」[杉本2000:141]
3.もう一つの本願③ • 海 「本当に、もう私は死ぬって覚悟をきめとったんですが、そげんするうちに海にひっちゃえて(落っこちて)、『いやあ、これで死んでよかったじゃなあ』ち思って抵抗せんば、ポカーンて浮かって来っとです」[杉本2000:141-142] 「海に行くからこそ、ちっぽけな陸であるちゅうか。人を憎んだり、いろいろなことで悩んでも、海に行けばすぐ次の波で打ち消してくれる」[杉本2000:142cf.立花1985(1983)] • 舟霊、エビス、のさり 「しびれた身体にもかかわらず、風の色、魚の色、いち早く見えるんです。ぼやっとしておれば舟霊さんが、『こっでもわからんとか』ちゅうぐらい、チャチャチャチャち騒いで教えてくれます」[杉本2000:142] 「風が来れば、『今日は休んでよかっだな』とか、具合が悪かれば、『今日はエベスさんが来んなちいわったで、おーい、行かんが(行かないぞ)』」[杉本2000:144] 「父もいい遺してくれたように、『水俣病も“のさり”じゃねって思おい』と。自分たちが求めんでも大漁したことを“のさり”という」[杉本2000:146]
4.もう一つの本願⑤ • 宗教/本願の会 「この会が発足するときはいろいろな話を聞いて、ある人は、これは宗教団体じゃぁなか、無宗教やっでと言う人もいたし、そういうことで変てこりんな話ばかし聞きよったが、でも、作ろうとするみんなの気持ちが、拠りどころとして何かを祈りたいというのが誰しもあったと思う。…/…我々は形としてできることをということで、最初はお地蔵さんじゃなかったが、いろいろなころを考えて、祈る場所を基本として、何かをしようとした。ところが祈りなんかすれば宗教の関係とみなされ、ああいうところ(埋立地)では何もできない」[杉本(雄)他2009:9]
5.まとめ • 水俣市の漁村においては、水俣病と共に、部落の人間関係が褶曲し、頻繁に、そして急激に死に直面するも、海からの景観で陸での出来事を相対化し、生かされている自己を見出すに至る。 • そこにおいて、「宗教」は、緒方の「『八代の麻原彰晃が南下して水俣に出てきた』なんて言われたらたまんない」[緒方2001:198]という発言にもあるように、1995年に起きたオウム真理教を強く念頭においてそこから距離をとり、また彼ら自身が所属してきた「組織仏教」とも距離をとってきた。だが病とその過程において、部落の人間関係が変容し、死を間近にする中で、特に、恵比寿[緒方2001:197-198]や舟霊[杉本2000]といった彼らにいのちを齎すものとのつながりを強化し、生き残った人々の重みを増させてきたように思われる。 • 漁村の杉本家では、罹災を自らの内に取り込み、水俣病を「のさり」として生きるようになった。そうした新たな自己を、「祈り」とその具体的形態としての地蔵の彫琢を以て、新たな世界に位置づけようとする本願が、他方で生み出したのが、反農薬水俣袋地区生産連合であった。
もう一人のイエスーオスカル・ロメロ(1917-1980)もう一人のイエスーオスカル・ロメロ(1917-1980) 「これは一九七九年の、彼のクリスマスイブ説教の言葉です。/幼な子イエスを、可愛らしいクリスマス人形の中に探してはいけません。/今夜なにも食わずに寝た栄養失調の子供たちの中に、玄関で新聞紙に包まって眠る貧乏な新聞少年の中に、探さなくてはならないのです。…-ロメロ大司教は一九八○年、四旬節のミサを挙げている最中に暗殺されました。」 「けれどもイエスと同じように、そこで話は終わりませんでした。十三年後に、シカゴで私[クロッサン]の歴史研究のシンポジウムに学者たちが集まったのですが、ドリュー大学神学校で教えているキャサリン・ケラーの発言には感動しました。 」 「彼女は最近までエルサルバドルにいて、そこで『生まれて初めて、初期キリスト教の物語が自分にとって現実になりました』というのです。ケラーが出会ったのは、身体と精神の癒しや食事のまわりに組織された草の根の共同体でした。/『復活したロメロ』は、いたるところの壁に貼られているけれども、『…死の力に痛めつけられないほど完全に自分たちの生命を共有した―男女の殉教者たちと一緒に、現れ続けています』。…正義に加わったせいで誘拐されて強姦されて殺された母親の遺志を受け継いでいる、というサルバドル人女性の感覚を通じて、磔と復活はケラーにとって今の現実になりました。『悪の力も、彼女の人生の意味を止めることはできなかったのです』。」[クロッサン・ワッツ1999]
永遠のいのち • 「延命」に生きる人々 AI クローン • 「死を味わうことのない者」 緒方さん/杉本さん 谷川俊太郎(の詩) イエス/ゴータマ …おおいなる「いのち」を見出した者に、「死」は訪れず、自らの「延命」に執着した者に「生」が訪れないのかもしれないという逆説
参考文献 Anonymus1984『スッタニパーダ』中村元訳 岩波文庫 Anonymus2005『福音書共観表』佐藤研編訳 岩波書店 緒方正人語り・辻信一構成1996『常世の舟を漕ぎて…水俣病私史…』世織書房 緒方正人2001『チッソは私であった』葦書房 クロッサン、ジョン&リチャード・ワッツ1999『イエスとは誰か?』飯郷友康訳 未刊行 黒川伊保子1998『恋するコンピュータ』筑摩書房 杉本栄子1973「記憶の折箱」、創立記念誌編集委員会編『創立記念誌袋小学校百周年袋中学校二十五周年記念』創立記念事業編集委員会:177-180 杉本栄子1985「海が私の舞台 杉本栄子 茂道」、羽賀しげ子『不知火記 海辺の聞き書』新曜社:49-91 杉本栄子2000「水俣の海に生きる」、栗原彬編『証言 水俣病』岩波新書:129-142 杉本雄1995「よみがえる水俣の海」、環境創造みなまた実行委員会編『再生する水俣』葦書房:42-47 杉本雄ほか2009「命の願いを求めて―本願の会座談会」、『魂うつれ』36:5-26 谷川俊太郎詩、田中渉絵2003『あなたはそこに』マガジンハウス 立花隆1985(1983)『宇宙からの帰還』中公文庫 萩原修子2009「語り得なさに耐える」、『宗教研究』第83巻第2輯361号:289-312 やまだようこ2007『喪失の語り―生成のライフストーリー』新曜社 大和雅之2008「再生医療研究の現状と展望」、『現代思想』36(8): 108-120 吉本哲郎編2009『杉本家の水俣病50年―知らないのは罪 知ったかぶりはもっと罪 嘘を言うのはもっともっと罪』市立水俣病資料館 その他 『魂うつれ』(1998~2011) 『かづら』(~2011)