160 likes | 265 Views
薬を使用する際の葛藤・逡巡 ―― 病を巡る負担における力学について ――. 松枝 ( 金崎 ) 亜希子 (立命館大学大学院先端総合学術研究科). 問題の所在. 近年の精神医療の治療実践においては、向精神薬は不可欠。 しかし、 1970 年代以降、反精神医学運動や欧米の当事者運動によって、精神医療ひいては向精神薬を否定する言説が流布している。 当事者による向精神薬否定の言説が展開されても、依然として精神医療において、向精神薬は供給され続けている。それに加え、当事者による主張も向精神薬を完全に拒否するものだけではなく、その主義・主張は多様である。. 研究の目的.
E N D
薬を使用する際の葛藤・逡巡――病を巡る負担における力学について――薬を使用する際の葛藤・逡巡――病を巡る負担における力学について―― 松枝(金崎)亜希子 (立命館大学大学院先端総合学術研究科)
問題の所在 • 近年の精神医療の治療実践においては、向精神薬は不可欠。 • しかし、1970年代以降、反精神医学運動や欧米の当事者運動によって、精神医療ひいては向精神薬を否定する言説が流布している。 • 当事者による向精神薬否定の言説が展開されても、依然として精神医療において、向精神薬は供給され続けている。それに加え、当事者による主張も向精神薬を完全に拒否するものだけではなく、その主義・主張は多様である。
研究の目的 • 当事者による精神医療・向精神薬への異議申し立てという運動の経緯を踏まえた上でも、当事者が向精神薬の服用を選択する、あるいは選択せざるを得ないよう当事者を誘導する力学とは何かを考察する。その際に「薬をめぐる議論はどういうところに落ち着かざるを得ないのか」「薬の供給を媒介に当事者は医療とどのような関係を取り結ぶのか」を検討する。
対象 • 国内外の精神障害当事者が書いた手記・論文、当事者へのインタビュー記録など、本邦にて公刊されているものを分析対象とした。 • その際、精神障害当事者による運動史上において、重要な位置を占めるだろう文献を、立岩真也『看護教育』連載「医療と社会ブックガイド」(http://www.arsvi.com/0w/ts02/2001000.htm)を参考に選出した。
向精神薬の否定 1970年代以降の欧米のメアリー・オーヘイガンやジュディ・チェンバレンなどを中心とする精神医療ユーザー運動は、精神医療・向精神薬について否定的である。 向精神薬は、口渇などの身体的副作用が深刻で、加えて頭がぼうっとするなどの思考不能の状態をもたらし、人格の破壊にいたると指摘。
薬が効くことが問題-吉田おさみ 1980年代に国内で、当事者の立場から精神医療などへの疑問をなげかけた吉田おさみ。 薬剤で「症状」を抑えることには違和感がある。違和感とは何か。 薬剤で精神や人格を変容させるのは「本当の自己の喪失」だから。医療・薬剤で強制的に症状を「なおす」こと、医療・薬剤で人格・精神を変えることがはらむの問題性を指摘。
「本人の決断に委ねるしかない」ー吉田おさみ「本人の決断に委ねるしかない」ー吉田おさみ 病気の症状自体が当事者にもたらす苦痛、また発症によって日常生活を送ることが著しく困難になる。 そこで、薬剤が医療によって供給されており、それを活用できる経路が開かれているなら、当事者は薬剤を利用せざるを得ない状況へと追い込まれる。 薬剤を服用するか否かは、肯定・否定の両価値を考慮して、「最終的には本人の決断に委ねるしかない」というところへ着地せざるを得ない。 そのような言説をつくりだすことで、薬剤の使用に関する両価値を両立しようと吉田は試みた。
負担を家族が負うー吉田おさみ 吉田は当事者でありながら、精神障害者をもつ家族でもあるという立場。 家族として、精神疾患を持つ個人へのケア、および当事者を巡る負担をおわざるをえない位置にある。 周囲の人たち、とりわけ家族は、病状を改善すると考えられているところの薬剤の服用を促して、負担の軽減を図るような処遇をとらざるをえない。 当事者の立場から、薬剤を肯定できない、あるいはしたくはないという吉田が、自分が精神障害者を持つ家族の位置に立つとき、薬剤を飲まさざるをないというジレンマに直面する。
薬物信仰ー吉田おさみ 再発と服薬の因果関係を証明できない。薬剤には否定的側面もある。しかし、再発を防ぐ有効な手立てとして、薬剤が供給されている以上、当事者は薬剤を服用するしかない。 そのようなジレンマが、逆説的に、当事者の間に「薬物信仰」を生んでおり、薬剤への依存的状況をつくっているといえるだろう。
再発を防ぐ 1970年代以降、国内において活動している「ごかい」「友の会」などの当事者集団の主張。 服薬を中止すると精神疾患が「再発する」と、医療従事者のみならず、当事者によっても考えられている。 再発への大きな不安を、薬剤を服用するという行為を通じて鎮めようとする試みがなされている。
薬を上手く利用する 薬剤は人為的なもので、深刻な副作用もあるため、使用せずに日常をやり過ごせるなら、それにこしたことはない。しかし、薬剤が自らの病状、苦痛を緩和する手段として、当事者に保障されているなら、当事者は服用せざるを得ない状況へと着地する。 薬剤を否定も肯定もできないが、「うまく利用していこう」というある種の開き直りの実践が、べてるの家や名月かななどの著作から読み取れる。
医療との協働関係 近年「自分に合う薬を探す」というテーマに当事者・家族から関心が集まっている。「より良い薬探し」に当事者や家族はかりたてられることになる。 「合う薬」探しや薬剤の減量、ひいては薬剤を使って病状を主体的にコントロールするよう試みる際には、当然ながら医師との協働作業が要求される。 病気とつきあっていかざるをえない状況において、当事者も薬剤についての知識を獲得し、自ら薬剤で病状をコントロールする、「かしこい病者」になるという戦略がとられている。 その背景には、当事者の苦痛の軽減もさることながら、周囲や家族に負担を負わせたくないという意図もはたらいていることはいうまでもないだろう。
考察・1 個人の精神疾患の発症は、社会とりわけ周囲や家族に負担が余儀なくされる。社会が薬剤の服用を推奨するのには、負担を軽減するという意図がある。 精神障害者による薬剤の服用を巡る力学を考える際には、従来指摘されてきた「狂気」をコントロールするという視点だけではなく、精神障害者をとりまく周囲の負担という視点を組み込んで読み解いていくことが必要である。
考察・2 薬剤の供給元は医師に限定されている。薬剤を服用する限りは絶対的な医師の支配下に置かれることを意味し、当事者と医師との関係性が、薬剤の供給状況にダイレクトにかかわってくる。 このことは医師との「協働関係」を結ぼうとしたとき、どのような障害となるのか、留意しておく必要がある。
考察・3 当事者は、薬剤で精神をコントロールするかぎり、社会から判断能力などを欠いた成員としてみなされ続ける。薬剤を否定も肯定もできない当事者がある種の開き直りとして薬剤を利用しようという戦略が、当事者にスティグマを負わせ続けることになる。社会の向精神薬への意味付与と、当事者のそれとの溝を、どのように実践によって埋めていくか。今後模索が必要だろう。
今後の課題 • なぜ病や障害をめぐる苦痛だけが、除去の対象となるのか。また、仮に負担を社会で分有し後に残された苦痛にはどう対処するのか。 • 薬剤を服用するか否かは「本人に決定を委ねるしかない」としても、当事者がすべてを自己決定してもよいということではない。この問題をどう考えるか。 • 疾患ごとに、当事者の語りから、どう医療と距離をとるのか、そのなかで薬剤はどのように位置付けられるかといった言説の配置を考察していく。 言説の違いをより際立たせるために、組織化された患者の集まり、セルフヘルプグループに参加する当事者の語りに照準を合わせる。