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5 ・ヤノマミと異文化理解. 2011.05.24. 青山 ・文化人類学. 異文化 へのスタンス. 「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、どのようなスタンスで臨むのか? 「ヘンだ」「ありえない」 …… だれでも一度は感じがちだが、それは「 自文化中心主義 」 だろう 「ふーん、そうなんだ、ま、それもありじゃ ん ?」 …… それは実はそれ以上の理解をやめてしまっている 思考停止 では? 「わかりました、あなたのやりかたを 100 %受け入れ、実行します」 …… それは「 自文化否定主義 」みたいなもので、長くは続かないのでは?
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5・ヤノマミと異文化理解 2011.05.24.青山・文化人類学
5・ヤノマミと異文化理解 異文化へのスタンス • 「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、どのようなスタンスで臨むのか? • 「ヘンだ」「ありえない」……だれでも一度は感じがちだが、それは「自文化中心主義」だろう • 「ふーん、そうなんだ、ま、それもありじゃん?」……それは実はそれ以上の理解をやめてしまっている思考停止では? • 「わかりました、あなたのやりかたを100%受け入れ、実行します」……それは「自文化否定主義」みたいなもので、長くは続かないのでは? • 「よーし、食べてみたぞ、これでおれはお前のことがよくわかった!」……そんなに話は単純ではないだろう(じゃあ、ピザを食べたらイタリア人のことがわかるのか??) • 「わたしはわたし、あなたはあなた、お互いとやかく言われたくないでしょう? だから、黙ってて」……それを突き詰めると多様性過多になって共同体は崩壊するのでは?
5・ヤノマミと異文化理解 異文化理解とはどういうことか?-中括 • 中国における猫食の背景 • まず、全員が食べるわけではもちろんない • 全ての中国国民に「ペット」という感覚が欠如しているわけでもない • 猫<虎(あるいは蛇<龍)という比喩的関係 • 同様の事例は、他にもないだろうか? • 韓国における犬食 • 日本におけるうなぎ食 • 猫食の背景を知っての「翻訳」と知らないでの「翻訳」は意味が違うし、当然「理解」にも差がでる • 異文化理解とは、そうした「文化の背景・理由・詳細について知る(知ろうとする)こと」である
5・ヤノマミと異文化理解 ヤノマミは理解しがたいのか? • 確かに、おぎゃあと生まれているのに葉っぱに包んで見殺しにし、白蟻に食べさせて、最後は巣ごと焼き払う、という表面だけを見ると「理解しがたい」 • それはなんだか、「自分たちの文化」からは遠くかけはなれたようなイメージである • しかし「ねこ=漢方に基づく精力剤」という知識を入れたのと同様、「人工妊娠中絶の問題」という知識を背景に考えてみると、どうだろうか?
5・ヤノマミと異文化理解 日本の人工妊娠中絶(1)
5・ヤノマミと異文化理解 日本の人工妊娠中絶(2)
5・ヤノマミと異文化理解 日本の人工妊娠中絶(3) • ヤノマミビデオでは「年間20人前後生まれる赤ん坊のうち、半数以上が精霊として森に還される」とされていた • 日本の1950年代は、実はそれと大差ない • 1975年は「年寄りの恥かきっ子」、2005年は「若者の過ち」としての人工妊娠中絶割合が目立つ(件数としては主ではない) • 日本における人工妊娠中絶の変化 • 1948年以前:そもそも禁止(1940年国民優生法と優生思想) • 1948-1976年……28週未満は可(優生保護法による) • 1949年:経済的理由による中絶を認める • 1976-1990年……24週未満は可 • 1990年以降……22週未満は可 • 1996年:優生保護法を母体保護法に改正
5・ヤノマミと異文化理解 「ヤノマミ」と「わたしたち」 • 「人工妊娠中絶の問題」という知識を背景に考えてみると、どうだろうか? • 人工妊娠中絶が「殺人」にならないのはなぜか? ……「法律」でそう決まっているのだとすれば、ヤノマミは? • 22週未満の胎児が「ひとではない」のなら、母親が抱き上げていないまだ精霊のままの赤ん坊が「ひとではない」のと、なにがどう違うというのだろうか? • そもそも、どの時点から「ひと」になるのだろうか? それは文化によるのだろうか?
5・ヤノマミと異文化理解 ヤノマミはわれわれを「ナプ」と呼んだ • 「ナプ」=人間ではないもの・人間以下のものに位置づけられることは、違和感・不快感を伴うだろう • それこそが「自文化中心主義的」スタンスだと言うこともできる • では、わたしたちがヤノマミを「原始人=原始そのままの暮らしをしているひと」「人間の本質・もともとの暮らし方をするひと」と位置づけることは、それと違うだろうか? • どうひいき目に見ても「原始人」は誉め言葉ではなく、「いまだわたしたち〈文明人〉になりきっていない生き物」としか受け取れないのではないか? →わたしたちの視線は、やはり不快な「自文化中心主義」なのではないか?
5・ヤノマミと異文化理解 自文化中心主義/文化相対主義 • 自文化中心主義とは、自分の文化の基準で周囲をはかり、自分と異なる点について、ヘンだ・おかしい・間違っている・劣っている・遅れている、などと判断する立場 • それだけ聞くと、ずいぶんよくないスタンスのようだが、ひとは誰でも成長過程で「自分の文化」を形づくっている以上、完全にこの見方を排除することは極めて難しい • 文化相対主義とは、相手の文化も自文化同様しっかりとした「体系」を持っており、そのひとびとの間で共有・学習され、継承・ブラッシュアップされてきたものであるから、互いに尊重されあうべきものだ、と考える立場 • それだけ聞くと、とてもすばらしいスタンスだが、これを実現するためには、i. 相手の文化を(コミュニケーションを重ねた上で)きちんと認める、ii. 自文化を相対化・客観視(3次元的に眺める)する、iii. 全体の中での位置を(自他ともに)把握することが必要であり、なかなか簡単に成し遂げられるものでもない
語 内容A 内容B A B 5・ヤノマミと異文化理解 「真の異文化理解」の不可能性(1) • 言語を媒介とするかぎりは、言語自体のもつ制約によって、100%信頼できるコミュニケーションは行ない得ない • ある語が指す内容について、話者Aと話者Bが想定する内容が一致しているかどうかを確認する手段はない
5・ヤノマミと異文化理解 「真の異文化理解」の不可能性(2) • 100%信頼できるコミュニケーションが成立しない以上、対話に基づいて得られる理解には、常に誤解がどこかには生じている • では、どうせ誤解があるなら、面倒な思いをして対話しなくてもいいのか? • だれかがそうしたスタンスをとることを止めることはできない(文化相対主義の限界) • だからといって、みんながみんな対話をやめてよいとも思えない……どうせ100点とれないから試験勉強はしない? 30点よりは50点がましだから、ちょっとでもがんばる? • 「理解できる」のではなく「理解しようとすることができる」だけだが、「理解しようとする」のとそれを放棄するのとの間には、大きな差がある
5・ヤノマミと異文化理解 なぜ異文化を理解しなければならないのか • そのひとつの理由は「理解の相互性・相対性」に基づいている • 理解(≒知ること)がコミュニケーションに基づくのだとすると、その回路を一方的に閉ざすことは適切ではない • もうひとつの理由は「知らなくてもいいが、知っていればよりよいことがあり得る」という点 • たとえば「方言」という文化を共有できるケースとできないケース、どちらがよりシンパシーを得られるだろうか? • 結局のところ、異文化理解は、他人への理解・他人とのコミュニケーションと似た次元にある
5・ヤノマミと異文化理解 異文化理解-まとめ(1) • 異文化理解とは「まあそれもありだろう」と認めることではない • 異文化理解とは「やってみること」でもない • 異文化理解とは、その行為や考え方の背景を理解することである • だから、ある意味、だれにでもできる(猫好きであっても猫食は「理解」できる) • 逆に、やろうと思わなければ、できない(簡単に流すことはできない) • 異文化理解は(基本的には)ことばやコミュニケーションを媒介として成り立つ • だから、100%完全に理解することはできない(言語の限界) • 自分のことば・自分の文化は、役立つとも言えるし、邪魔になるとも言える(基準点としての自文化 vs 自文化中心主義)
5・ヤノマミと異文化理解 異文化理解-まとめ(2) • 異文化理解とは、つまるところ、全然知らない「異文化」に対して働きかける不断のプロセスである • 全然知らない0の状態から、実現不可能な理想の100の状態をめざして、0よりは10、10よりは30……の理解を続けていこうとするひとつの〈プロセス〉である • 「理解しよう」という動的 dynamic な〈プロセス〉であって、「理解した」という静的 static な〈状態〉ではない • 異文化理解は、個人としての他人の理解と似通ったものとしてとらえて、ほぼさしつかえない • 他人を理解することは必要か? 他人を理解することは可能か? という問いに対して、個々人がどういうスタンスをとるのか、という問題と、本質は同じである