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2 ・広州市場. 2012.04.27. 青山 ・文化人類学 / 文化人類学 A. 前回:4つのキーワード. 普遍性 たとえば「人類」であるかぎり、どこかで共通点はあるはずで、なにかしらわかり合える部分はあるだろうし、地球上で暮らすひとびとが持っている文化に違いはあれど、ひとが「文化を持っている」こと自体は普遍的であろう 多様性 とはいえ、個々のひと・文化の特徴はさまざまであろうし、その多様性を留保することは、おそらく大事なことだろう 個別性 普遍性と多様性の両方をつきつめていけば、「個別性」とその尊重というのがひとつの究極点にあるのかもしれない 相対性
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2・広州市場 2012.04.27.青山・文化人類学/文化人類学A
2・広州市場 前回:4つのキーワード • 普遍性 • たとえば「人類」であるかぎり、どこかで共通点はあるはずで、なにかしらわかり合える部分はあるだろうし、地球上で暮らすひとびとが持っている文化に違いはあれど、ひとが「文化を持っている」こと自体は普遍的であろう • 多様性 • とはいえ、個々のひと・文化の特徴はさまざまであろうし、その多様性を留保することは、おそらく大事なことだろう • 個別性 • 普遍性と多様性の両方をつきつめていけば、「個別性」とその尊重というのがひとつの究極点にあるのかもしれない • 相対性 • 個別性の尊重について考慮するには、お互いを入れ替え可能とする考えかた=「相対性」についての理解が必要となろう
2・広州市場 前回:文化の多様性(=異文化)の重要性 • もしも地球上の全人類がおなじ文化を持ち、おなじことばを話し、おなじように行動して、おなじ考え方をするとしたらどうだろうか? • 確かに英語を覚える苦労は必要なくなるが、非常に殺風景で味気ない世界が出現することもまちがいない • それはもはや「人間」の世界ではなく「ロボット」の世界に近い • つまり「人間らしい」ということの多くは「多様性・異文化」が支えてくれている • 考え方の違う他者にいらついたり傷ついたり、誤解が生じてトラブルになることもあるだろう • けれども「わかり合える」という「人間らしい体験」は、そうした他者がいるからこそ成り立つ
2・広州市場 前回:相対的な視点の重要性 • 多様な異文化を肯定するのであれば、できるだけそこで摩擦を減らし、共存していくためのスタンスが必要になってくる • 「自分の常識が正しい」という考え方は「他人の常識は間違っている」という否定につながる • けれども相手から見れば、相手の常識が正しく、自分の常識は間違っている、ということになるはず • では、自分と相手と、どっちが本当に正しいのだろうか? それは、だれかが決めることができるのだろうか?
2・広州市場 映像資料:広州市場 • 市場で売られているものを、ノートなどにひとつひとつ書き取りながら、まず観る。 • 市場ではねこが食用として売られている。必然的に「ねこを食べるという〈異文化〉」がそこに存在することになるが、それについてどう思うか。また、この講義を受けている他の人々はどう考えていると思うか。 • 別紙を参照しながら、自分の選んだ選択肢番号(数字とアルファベット)それぞれを、インプレッションペーパーの右上に 2A5E3B などと記入してください。
2・広州市場 異文化接触・異文化理解の問題 • 自分たちとかなり・全く異なる文化と接した場合、 • 「わたしたちとは違うけれども、それをとやかくいうことはできない」「あれはあれでありだろう」は、果たして異文化理解のスタンスとして適当なのか? • それは「わかったふり」をしているだけで、実はそれ以上の理解を拒絶・否定している可能性はないか? • あるいは、すべて受け入れて、自分たちも同じようにふるまえば理解したといえるのだろうか? • 「自分たちの文化とは違う」という文化の差異に対して、どのようなスタンスで臨むのか?
2・広州市場 自分を中心に考えてしまうこと • 「日本人の感覚からすると、ねこはペットであって、食べるものではない」→「ヘンな食文化だ」 • 土を食べる民族もいれば、カブトムシの幼虫をごちそうとする民族もいるし、豚の血液をおいしいとする民族もいる • が、大事なのは、絶対的に・誰から見ても「変わっている」食物・食文化というのはない、ということ • 「ヘンな食文化」という考え方の裏には「自分たちはヘンじゃない」という前提がある • これは、日本人だけでなく、世界のひとびとに共通する普遍的な考え方=自文化中心主義 ethno-centrism • 「異文化理解」においては自文化中心主義はとても厄介
2・広州市場 猫食をめぐって(1) • まず大事な点は、1から6までのスタンスに、善悪が存在するわけでは「ない」、という点(真剣に考えて出た答えであるかぎり、どれも正当である) • 次に重要なのは、「1 絶対に許せない」から「6 自分も食べた」へと順々に進みさえすれば、他者理解が実現するわけでも「ない」という点(「食べたらわかる」などということはない)
2・広州市場 猫食をめぐって(2) • ねこが広州市場で食用として売られているのをみて、中国の文化への不信感を抱くのは短絡的である • ねこを食べるのが中国国内のどのような人々であるのかわかっているだろうか? (部分→全体への安易な拡大) • ねこを食べるという行為が、中国文化(あるいは、中国のある一部の地域・一部の階層の文化)全体のなかに位置づけられる、ある一つの小さな要素であるということをわかっているだろうか? (文化の総体性の無視) • ねこを食べる理由が、たとえば非常に人道的な目的であったりする可能性を考慮しただろうか? (行為の背景にある文脈の無視)
2・広州市場 「文化の翻訳」という問題(1) • たとえば、日本人―鯨の関係と、中国人-ねこの関係を等値と見ること、はよく試みられる • それはショックを緩和する意味で、大切なはじめの一歩 • ただし、それは「翻訳」であって「理解」ではないのに、「理解した気になる」のが問題 • cf. むずかしい英語の(あるいは独語/仏語の)哲学書を、がんばって日本語に翻訳したとする • それはその哲学書の「内容」を理解したことになるか? というと、ならないはず • 鯨への置換は「文化の翻訳」にすぎない
2・広州市場 「文化の翻訳」という問題(2) • 古池や 蛙飛び込む 水の音 と、Old pond---frogs jumped in---sound of water(ラフカディオ・ハーンの英訳) • 両者を、完全にイコールで結ぶことは、むり • だからといって、両者がまったく違う、ということでもない • 両者の相互理解について語るには、何万の言葉を費やさなければいけないだろう →文化の問題も同じでは?
2・広州市場 異文化理解とはどういうことか?-中括 • 中国における猫食の背景 • まず、全員が食べるわけではもちろんない • 全ての中国国民に「ペット」という感覚が欠如しているわけでもない • 猫<虎(あるいは蛇<龍)という比喩的関係 • 同様の事例は、他にもないだろうか? • 韓国における犬食 • 日本におけるうなぎ食 • 猫食の背景を知っての「翻訳」と知らないでの「翻訳」は意味が違うし、当然「理解」にも差がでる • 異文化理解とは、そうした「文化の背景・理由・詳細について知る(知ろうとする)こと」である