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ヨーロッパの東洋進出. 15 ~ 16 世紀ヨーロッパ→近代社会へ移行. 十字軍の腐敗や内紛 戦費負担の重税 ペストの流行. 十字軍 (11 ~ 13 C ). ヨーロッパ勢が イスラム勢に駆逐. 東西交流. ヨーロッパ商人とイスラム商人と交易. 商業が著しく発展. イスラム勢力がヨーロッパに進出. コンスタンティノープル陥落. 15 世紀. 15 世紀末. 東ローマから 多数の知識人 がイタリアへ亡命. オスマン=トルコ による東西貿易交 通路 ( 陸路 ) の遮断. ルネサンス. 15 世紀半. ポルトガル・スペイン両国.
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ヨーロッパの東洋進出 15~16世紀ヨーロッパ→近代社会へ移行 十字軍の腐敗や内紛 戦費負担の重税 ペストの流行 十字軍(11~13C) ヨーロッパ勢が イスラム勢に駆逐 東西交流 ヨーロッパ商人とイスラム商人と交易 商業が著しく発展 イスラム勢力がヨーロッパに進出 コンスタンティノープル陥落 15世紀 15世紀末 東ローマから 多数の知識人 がイタリアへ亡命 オスマン=トルコ による東西貿易交 通路(陸路)の遮断 ルネサンス 15世紀半 ポルトガル・スペイン両国 レコンキスタ(国土回復運動 ) 16世紀 王を中心とする 中央集権国家を樹立 新航路開拓の必要性 宗教改革
15世紀半ば~16世紀 ヨーロッパ → 大航海時代15世紀半ば~16世紀 ヨーロッパ → 大航海時代 ポルトガルとスぺインが共に世界交易に雄飛 中央集権国家体制樹立 → 重金主義の採用 国富増大を目指し、 対外征服や略奪、 鉱山開発を推進。 貴金属を蓄積 絶対主義体制 (常備軍・官僚制度)の維持 ポルトガルは、リスボン到着の香辛料がすべてインド庁の倉庫に納入され転売益(60倍)が国王収入となった。新大陸に向かったスペインにとっては交易の成立しない異文明との遭遇は掠奪と破壊の対象となった。 貿易品目=香辛料(特に胡椒、肉桂、丁字等)、 茶、絹、宝石など ※胡椒は同じ目方の金と取り引きされたという。
東洋に対する関心の増大(a) マルコ=ポーロ(1254~1324)著「東方見聞録」日本は黄金の国ジパングとして紹介航海技術の発展(a) 羅針盤=方位磁石 (b) 地図の作成(c) 地球球体説の普及 ←トスカネリ(フィレンツェの天文・地理学者)の学説 (2) ポルトガルの海外進出 →地球を東回りして東洋に至る航路の開拓(a) エンリケ航海王子(1394~1460)のアフリカ探検、 インド航路の開拓の奨励(b) バルトロメウ(バーソロミュー)=ディアス(1450頃 ~1500)、喜望峰を発見(1488)(c) ヴァスコ=ダ=ガマ(1469頃~1524)、喜望峰をま わってインドのカリカットに到着(1498)
進出地域の拡大(a) ゴア(インド) → セイロン島・マラッカ海峡 → マカオ(明、1557に居住権獲得)(b) 種子島に漂着(1543)=日本と西洋との最初の接触 極東における根拠地=マカオ(澳門)(明)(3) スペイン(ヒスパニア)の海外進出 →地球を西回りして東洋に至る航路の開拓(a) コロンブス(1451~1506)、アメリカ大陸に到達(1492) ←スペイン女王イザベラの援助(b) コルテス、ピサロによるアメリカ大陸(メキシコ、 ペルー)の征服(16世紀前半) → 銀採掘(c) コルテス(1485~1547) →アステカ王国(メキシコ)の征服(1521)(d) ピサロ(1470頃~1541) →インカ帝国(ペルー)の征服(1533)
(e) マゼランの世界周航(1519~22) → ただし、マゼラン自身はフィリピンで戦死(f) マニラ(フィリピン)を根拠地とする(1571)極東における根拠地=マニラ(フィリピン)
南蛮貿易1.西洋人(南蛮人)との最初の接触1)ポルトガル=1543(42)年、種子島に漂着、島主種子島1.時尭、鉄砲を入手 → 以後、毎年のように九州の諸港に来航南蛮貿易1.西洋人(南蛮人)との最初の接触1)ポルトガル=1543(42)年、種子島に漂着、島主種子島1.時尭、鉄砲を入手 → 以後、毎年のように九州の諸港に来航 2)スペイン=1584年、平戸(肥前)に来航 2.南蛮貿易とは南蛮船(主にポルトガル船)による貿易=中継貿易(南蛮船は本国固有の物資は殆どない)・輸出品=銀、刀剣、海産物(昆布やフカヒレなど)、 漆器…銀と特産品 ・輸入品=生糸・絹織物、鉄砲、火薬、皮革、鉄、 火薬、薬品など…軍需物資と高級品
3.キリスト教の布教と密接に関係・入港地は宣教師の意向で決定 → 布教許可大名の領内へ寄港3.キリスト教の布教と密接に関係・入港地は宣教師の意向で決定 → 布教許可大名の領内へ寄港 ■ポルトガル船の中継貿易の構図
貿易港(a) 鹿児島、坊津(島津領)(b) 2.平戸(松浦領)(c) 3.府内(大友領)(d) 長崎(大村領)(e) 口之津(有馬領) キリシタン大名=貿易のため布教許可、後に信者となる ※貿易の中心港は平戸(松浦領)から長崎(大村領)へ 南蛮船は、最初平戸に渡航していたが、平戸領主松浦氏と不和になったポルトガル人は、新たな港を探し、大村領内の横瀬浦に目をつけた。領主大村純忠は、ポルトガル人の希望を受け入れ、キリスト教布教の許可を出したため、彼らはここを港と定め、横瀬浦で南蛮貿易が始まった。 平戸城からの海の眺め
鉄砲伝来の影響 欧米の研究家の間では、欧州の瞬発式火縄銃(マッチロック式銃)が日本に伝 えられて改良発展したものが、逆に東南アジアに伝えられ、それらが手本となって日本式の機構が東南アジアに広まったとする説もある。(ニッケル説、ブレーヤ説) ① 戦術革命 一騎打ちの騎馬戦法から,足軽鉄砲隊の集団戦法へ。 ② 早期に戦争が決着する。→国内統一を早める。 ③ 築城法の変化。→山城から堅固な白壁の城壁をも つ4.平城へ変化する。例 有馬氏代々の居城「日野江(日之江)城」 =連郭式平山城→大手口から二の丸へ約100m続 く「直線階段遺構」が発見。外来系の技術を駆使 した石垣遺構。
南蛮文化の流入=風俗、習慣、学芸の各面に影響南蛮文化の流入=風俗、習慣、学芸の各面に影響
キリスト教の伝来(1) 宣教師の来日宣教師来日の背景=旧教の失地回復策により、貿易とキリスト教布教の一体化(商人と宣教師の結合) (a)来日した伝道の諸会派←対抗宗教改革イエズス会(耶蘇会、1540年設立) 「教皇の精鋭部隊」←創立者イグナチオ・デ・ロヨラ=騎士出身→主な活動=①教育活動、②宣教事業、③社会正義事業 1549年布教開始、1643年消滅・1549年のザヴィエル来日以来、布教を独占、迫害 下に最後まで残存・来日にした宣教師数200名以上、うち殉教者87名・代表的宣教師=フランシスコ=ザヴィエル、 アレッサンドロ=ヴァリニュアーニ、 ガスパル=ヴィレラ、ルイス=フロイス
イグナチオ・デ・ロヨラ カトリック教会の男子修道会。宗教改革以来、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれた。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。 フランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名、ペトロ助四郎と、伊勢の大工フランシスコ、計26聖人の大殉教、1862年(文久2)ローマ教皇ピウス9世によって列聖。 フランシスコ・ザビエル
(b) フランシスコ会(1209年設立)1592年布教開始、1638年消滅・1592年、ペトロ=パプチスタ来日、強引に布教開始サン=フェリペ号事件(1596)=スペイン船の漂着事件 →秀吉は、船荷と乗員の所持金のすべてを没収。キリスト教 が布教で植民地化目指していると、秀吉は1596年に再び禁教 令を公布。→大阪と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、 イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛、ペトロ助四郎と、 伊勢の大工フランシスコも捕縛、1597年、長崎で処刑せ よという命令=26聖人の大殉教となる(c) アウグスチノ会(1567年設立)1584年布教開始、1638年消滅(d) ドミニコ会(1216年設立)異端討伐の先兵になるなど1602年布教開始、1634年消滅C.キリスト教徒の増加 3万人(1570) → 10万人(1579) → 15万人(1582) → 20万人(1587) → 75万人(1605)
(2) キリスト教普及の要因宣教師の熱心な活動(教育、社会事業、医療事業など)(a) 教育・セミナリオ(神学校)=イエズス会司祭・修道士育成の中学校程度の神学校、安土・有馬に設置・コレジオ(修学所)=大学程度の宣教師養成機関、 豊後府内 →天草・長崎・ノビシャド=イエズス 会入会者の修練所(b) 社会事業(c) 医療事業 バテレン(外国人宣教師)が出迎え ている。町には 店が並ぶ。 仏教風の南蛮寺が描かれている。
B.大名の保護南蛮貿易が目的(ポルトガル・スペインにとって貿易と布教は表裏一体)(a) 代表的キリシタン大名大友義鎮(宗麟)(豊後),5.有馬晴信(肥前),大村純忠(肥前)・高山右近、小西行長、黒田如水、細川忠興ほか(b) 保護政策=布教許可、教会設立許可・南蛮貿易の中心地=平戸(領主松浦氏は好意示さず) → 長崎へ移る(大村氏はキリシタン大名)C.民心の仏教からの乖離、西洋文化へのあこがれD.織田信長のキリスト教に対する寛容と保護 =寺院勢力を押さえるため(a) ルイス=フロイスに対し、京都に南蛮寺の設立許 可
(3) フランシスコ=ザビエル(1506~52)の活動 日本での活動期間(1549~1551)A.来航…鹿児島来航(1549.8) ←マラッカにおける薩摩青年アンジロウとの出会いB.伝道活動・鹿児島上陸(1549.8) → 島津貴久から布教許可 → 1年後に布教禁止→ 退去 → 平戸 → 博多 → 山口 → 京都(情勢不安定、11日間滞在後に退去) → 山口(大内義隆布教許可、本格的布教開始) → 府内(豊後大友宗麟が入信)→ 日本退去(1551.11) → 中国へ
C.ザビエルの跡を継いだ宣教師たち(a) ガスパル=ヴィレラ(1525~72)・1556年来日、主に畿内で伝導・「耶蘇会士日本通信」…自由都市堺の状況を報告(b) 6.ルイス=フロイス(1532~97)・1563年来日、信長に謁見、秀吉とも親しい、追放令で退去後、1590年再来日、長崎で死亡。・「日本史」の執筆(b) オルガンチノ(1530~1609)・1570年来日、信長の 信頼をうける・京都に南蛮寺を設立(1576)、安土にセミナ リオを設立
(4) アレッサンドロ=7.ヴァリニャーニ(1539~1606)の活動A.布教体制の整備=都(近畿・西日本・四国)、豊後、下(豊後をのぞく九州)の3布教区の設定B.教育機関の整備(a) セミナリオ(神学校)…有馬、安土に設立(b) コレジオ(修学所)…豊後府内(現・大分市)に設立(c) ノビシャド…臼杵に設立C.天正遣欧使節の派遣(1582~1590)(a) 大友義鎮、大村純忠、有馬晴信のキリシタンの3大名にすすめ、少年4人をローマへ派遣(b) 少年使節…伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人
(c) 行程・長崎出発(1582) → マカオ、マラッカ、ゴア(喜望峰経由) → リスボンに上陸、ポルトガル、スペイン、ローマ(ヨーロッパ各地で熱烈歓迎)→8.グレゴリウス13世に謁見(1585) → 帰国(1590)=すでに活躍の場なし(バテレン追放令(1587)発布済)